GTOにも金八にもヤンクミにもなれなかった人のブログ

主に国語(現代文・小論文)の授業について

垣内の小論文講座 第1回

お世話になっています。垣内玲です。

 

rei-kakiuchi-kokugo.hatenablog.com

 

上記の記事で告知致しました垣内の小論文講座ですが、早速お2人の方からの投稿がありました。ありがとうございます。というわけで、大まかな解説と、頂いた答案へのフィードバックをやっていこうと思います。

 

なお、小論文の書き方についての総論的なものは下の記事に書きましたので、まずはこちらをお読みいただけるとよいかと思います。

rei-kakiuchi-kokugo.hatenablog.com

 

 

本文解説

今回書いてもらったのは高知大学人文社会科(2018)の小論文第1問、課題文は長田弘氏の『なつかしい時間』から「会話と対話」でした。

タイトルをみれば想像がつく通り、「会話」と「対話」という2種類のコミュニケーションの対比を主軸とした随想です。「会話」と「対話」といえば、現代文Bの教科書に平田オリザ氏の「対話の精神」という評論があって、それを読んだことのある人もいるかもしれません。

筆者は「会話」と「対話」をそれほど厳密に定義しているわけではありませんが、一般的に「対話」と言った場合、「価値観や利害の異なる相手とのコミュニケーション」という意味合いが強く含まれます。

 

談判というのは、いろいろなことを始末したり、おおよそのことを取り決めたりするときに、論じ合い、談じ合って交渉すること。つまり、対話することです。

 

こういう説明からもわかるように、筆者も「対話」という語を、自分と違う立場の相手との交渉や意見交換という意味合いで用いていると考えられます。それに対して「会話」とはどのようなものか。

 

会話といっても、多くは言葉を使い捨てにするお喋りをいまは会話と言っていることが多いように思います。たがいに向き合って、違ったものの見方を重ねてみる代わりに、考え方が違えば同席せず、目が合えば衝突、喧嘩という格好になりがちなのは、結局、対話という考え方、あるいは勝海舟の言う談判の考え方こそ、この百年、時の過ぎゆくままに、この国が失いつづけてきた大事なものではなかったか、と案じるのです。

 

この部分からわかるように、筆者は(今の時代の)「会話」を「言葉を使い捨てにするお喋り」であると述べており、「たがいに向き合って、違ったものの見方を重ねてみる」「対話」を重視していることがわかります。

そして、「対話」のないところには「時と場合に応じてそれぞれの思慮分別」(傍線部)が出てこなくなってしまうという。要するに、「会話」ばかりでは人間は思慮分別を働かせなくなってしまう、つまり、アタマを使わなくなってしまうのです。

なぜ「対話」がアタマを使うことと関係するのか。それは、「対話」が自分と違う立場の相手とのコミュニケーションだからです。自分と同じような価値観や考えを共有しているという前提のもとに進められる「会話」は、相手の立場を敢えて想像するためにアタマを働かせる必要がない。アタマを働かせるためには「目の前の相手は自分とは違う考えや価値観を持っている」という前提が必要なのです。相手が自分とは違うと考えるからこそ、相手の価値観や利害をアタマを使って考える「対話」が必要だということですね。しかし、私たちの時代はその「対話」を失ってしまっているのではないか。筆者はそう問いかけるのです。

 

解答作り

小論文の書き方(超入門編)でも書いた通り、入試小論文では「インテリの価値観を共有できているか」という点が問われます。今回のテーマの場合、インテリが「対話」の重要性を説く筆者に反対するというのは非常に考えにくく、基本的には筆者の主張に沿った形で論を展開していくのが無難であろうと思われます。その際意識すべきことは、「私たちの社会が『対話』の重要性を見直していくことは私にとって重要なことである」という当事者意識を表現できているか、という点です。

「対話が大事である」というのは、はっきり言えば誰でも言えることなんです。他ならぬあなたがそれを重視するのはなぜか。

筆者が言う「対話」は、(この随想を読んでいるだけでは気づきにくいのですが)実のところかなり面倒な仕事です。自分と立場を異にする相手のことを理解し、配慮し、考えなければいけないのですから、楽なはずはありません。避けて通れるものなら避けて通りたいと思うのが実は普通のことなのです。それでもあなたは対話が大事だと主張する、それは何故なのか。

例えば自分自身が何らかの少数派的な属性(例えばLGBTであるとか、障害者であるとか)を持っているという場合であれば比較的答えやすい。少数派である自分の権利を訴えるためには、社会の多数派と少数派が対等に議論できる状況がなければならない。しかし、差し当たってそういう切迫した状況に置かれていない人たちにとって、それでも対話が必要なのだと言えるだけの当事者意識を持てるのか。まずはそこから考える必要があるでしょう。

 

投稿された解答とフィードバック

それでは、投稿されてきた解答を読んでみましょう。今回投稿者は2名でしたが、どちらも非常にレベルの高い内容です。

 

昨今はコミュニーケーションや和を積極的に重んじる性質を内面化されている。それは会話を巧みに活かす素養だ。 しかし対話の概念は逆の発想だ。自己と相手の論を思弁的に追求し、止揚する操作が求められる。 論の捨象過程に際して未熟な点は切り捨てられる。若しくは相補的な枠組みの中での変更を免れ得ない。 その過程で相手の精神を尊重しながら進めるのは、多くの精神や時間を労する。 つまり、多くのコストを際して対話を行う事は非効率と見做される時代なのだ。 しかし私は対話の回避を肯定する。 例えば、対話に際して用いられる自然言語は推論や概念操作に際して、致命的な欠点が存在する。例えば、とある単語に対して自他は同じ意味を共有しているとは限らない。しかし暗黙知として、有耶無耶なままにそれは進行する。更に出来事の認識には多様性が存在するのだ。故に言語の曖昧さと認識の多様性により事態は一層、不可解な産物になる。 つまり関係性を害するリスクを犯してまで、不可解な論の解釈を行う必然性が存在しないのだ。 そして其れらの意見表明は関係を損うリスクを負った相互理解には成るかも知れない。しかしコミュニティ全体の危機に陥る事も有り得る。 これらは融和と健全なコミュニケーションには程遠い。 それでも対話を求めるなら厳然たる統計に基づくデータ、専門家と呼ばれうる水準に至る学識乃至は学位を用意しなければならない。

 

まさかの筆者への反論!

正直このテーマで筆者に反論するという発想自体が私にはなかったので、まずはその柔軟性を評価したいですね。とはいえ、先ほども書いた通り、インテリが「対話」を軽んじるということはまず考えられないので、「つまり関係性を害するリスクを犯してまで、不可解な論の解釈を行う必然性が存在しないのだ」というのはいささかインパクトが強過ぎるかもしれません。「会話」のポジティブな側面を指摘するという方向性自体は面白いので、二項対立的に「対話」を切り捨てるというよりも、両方の利点を理解した上で、どういうときに「対話」が必要なのかを検討していくという形に修正していくのが良いでしょう。

 

次に気になるのは言葉の難しさですね。入試に出てくるような評論文にはこういう言葉遣いをするものも多いですが、学生が答案として提出するときには、どちらかといえば平易な言葉遣いの方が好まれると思います。というのも、採点者は膨大な数の答案を読まなければならないのであり、難しい言葉が使われているとそれだけで読むのが大変になってしまうからです。学校側は受験生に難しいものを読ませるくせに受験生の書いた難しい文章は読みたくないというのも勝手な話だとは思いますが、この内容は実際のところ、もっともっと平易な表現でわかりやすく、そして面白く表現できるはずなので、難しい言葉が却って文章の魅力を削いでいるとも思うんですね。可能な限りシンプルな表現で書いて、どうしてもある部分では難しい言葉を使うしかなかった、というところで格調高い言葉を使うというように心がけるとよいです。アカデミックな雰囲気の言葉は、ここ一番という見せ場でビシッと決めるときに使う、という切り札にすると良いでしょう。

 

 

会話とは仲間内で共通了解のある単語群を特定のパターンで並び替えて、言葉の羅列を投げ合っているだけであるが、対話は見知らぬ他者と行われるものであり、その共通了解を作り上げることから開始される。

アメリカのバークリー音楽大学では3年次までは音楽理論を教えられる。これは音楽という領域の中で共通了解がされているパターンの分析である。そして4年次ではその音楽理論からはみ出した領域が対象となる。その対象というのは例えば現代音楽である。ただのノイズにしか聞こえない音の並びを音楽と名付けることで音楽の領域は広げられていく。例えそれが一般的に音楽と呼ばれることがなかったとしても、その活動が音楽を自由にする働きがあることは間違い無いだろう。これは共通了解のなされていない領域に対してアプローチすることで新しい共通了解を築いていこうとする試みである。音楽において、その領域の拡大を努力せず、すでにパターンが分析されたものの組み合わせだけで音楽を消費していたら、いつからはそのパターンを消費し尽くし音楽というもの自体が見向きもされなくなるだろう。

これは言語による交流においても同様である。言語においてその領域の開発を担うのは対話である。常にわかり合うことのなかった他者との交流を通じて存在しうる範囲を広げていかなければ、音楽同様いつかは打ち捨てられてしまうだろう。

 

言語的コミュニケーションと音楽を結びつける発想、これも新鮮ですね。そして、「対話」がなければ言語そのものが衰退していくという指摘は非常に鋭いところを突いてると思います。

 

文章としてもおかしなところは無いのですが、「何のために音楽の話題を出すのか」についての説明を第2段落のはじめに書いた方がよさそうです。最後まで読めば音楽の話と言語的コミュニケーションの話がつながっていることがわかるのですが、小論文では採点者が「今何の話をしているの?」と悩まないようにしてあげることが大切です。それに関連して第2段落そのものをもう少し短くした方が良いでしょう。この小論はあくまでも言語の話がメインのはずですが、その割には音楽の話が長くなりすぎているのがもったいない。第2段落を縮小して、第3段落で「異質な他者との対話によって言語の可能性が拡大していく」という内容をもっと詳しく説明した方が構成として美しくなります。

 

細かいところでいうと、第2段落が「バークリー音楽大学」の話になっていますが、別に特定の大学の話にする必要はなくて、音楽教育一般の話としてまとめてもよいのかなと思います。

 

欲を言えばやはり、書いた人間の当事者意識、つまり、「対話は私にとって大事なのだ」というニュアンスを伝えていきたいところだなとは思います。言語が「音楽同様いつかは打ち捨てられて」しまったとして、あなたにはどんな不利益があるのか、間接的にでも伝わるような書き方ができるともっともっと魅力的な文章に仕上がるでしょう。

 

まとめ・次回予告

初回からクオリティーの高い投稿をいただいて、垣内の小論文講座も非常に順調なスタートが切れたと思っています。改めて、投稿者のお2人に感謝致します。

この調子で第2回をやっていきたいなと思いますのでよろしくお願い致します。第2回は、首都大学東京(2015)の現代文第3問を扱います。現代文の問題ではありますが400字の作文問題で、実質的には小論文です。課題文は玄田有史氏の『希望のつくり方』になります。投稿したいという方は下記のメールアドレスに(できればワードファイルを添付する形で)解答を送っていただければと思います。

 

メールアドレス:rei_kakiuchi_kokugo@yahoo.co.jp