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主に国語(現代文・小論文)の授業について

【高校生向け】小論文の書き方(超入門編)

小論文入試の目的

入試で小論文を課す目的は、大きく二つに分けられます。ひとつは、その大学の学生に相応しい能力があるかを測定すること。もうひとつは、その大学の学生に相応しい価値観と問題意識を持っているかを見極めることです。
小論文で測定できる能力とは、ひとつは(言うまでもなく)論理的な文章を「書く力」ですが、大抵の場合「読む力」も試されます。というのも、多くの入試小論文の問題は、何らかの文章(「課題文」と呼ばれます)を読んだ上で自分の意見を答えるという形になっているからです。

 

小論文で試される「読む力」と「書く力」

課題文を読んだ上で自分の意見を答えるタイプの試験のことを、「課題文型小論文」などと呼びます。

さて質問です。「課題文型小論文」の採点においてより重視されるのは、「読む力」でしょうか?「書く力」でしょうか?


正解は「読む力」です。小論文なのになぜ「読む力」が重視されるかって?それは、「自分の意見を書く」よりも、「相手の意見を理解し、相手の問題意識にあわせて自分の意見を書く」ことの方が何倍も難しく、大学生に求められているのはまさにそういう能力だからです。
例えば、みなさんに「死刑制度の廃止に賛成か反対か」というテーマで意見文を書いてもらうとしましょう。賛成か反対かはすぐに決められますね。そして、その理由についても、どの程度の説得力を持ったものになるかは別として、何かしら付け加えることはできますよね。自分の意見とその根拠を言うだけなら、それほど難しいことではない。
ところが、ある人が死刑制度について論じた文章を読んで、それを踏まえて意見を言うとなると小論文の難易度はグッとあがる。その文章の中で死刑制度の廃止が主張されていたとして、その根拠が何であるか、筆者がどういう問題意識で死刑に反対しているのかを理解しなければならない。
仮にその課題文の筆者が「死刑は憲法第36条で言う『残虐な刑罰』に該当する」という理由で死刑廃止を訴えていたとします。それに対して反論しようとした場合、「死刑は残虐な刑罰にはあたらない」ということを示さなければなりません。「遺族の気持ちを想えば死刑が当然である」などと書いてもダメです。課題文の筆者の論点とズレてしまっているからです。
このように、「課題文型小論文」ではまず「読む力」が問われ、課題文の内容を十分に理解した上で、自分の主張を述べるという力が試されます。その能力は「学問」の基本です。大学ではたくさんのレポートや論文を書かされることになりますが、レポートや論文というのも自分の思いつきを好き勝手に論じれば良いというものではなく、これまでの研究や調査の積み重ねを理解した上で自分なりの意見を示すということが求められているのです。
したがって、「課題文型小論文」で何よりも重要なことは、課題文の内容を理解して、必要な形で要約できることです。そういう意味で小論文も現代文の延長線上にあります。

では、小論文試験で評価される「書く力」とはどのようなものか。
一文をできるだけ短くするとか、論点をわかりやすくするために最初に結論を書くとか、パラグラフごとの要点をはっきりさせるとか、色々なテクニックがありますけれども、根底にあるのは「読者を苦労させない」ことだと考えて下さい。
一文が長過ぎると、何が書かれているのかを理解するのに時間がかかる分読む人間が苦労します。結論が最後までわからない文章よりも、最初に簡潔に何を書こうとしているのかを示してくれた方が楽に読めます。パラグラフごとの要点も、できるだけ始めに短く示してくれると苦労が減ります。内容的なことについてはこの後説明しますが、とにかく読者を苦労させないことを考えて下さい。字の丁寧さなども、読む人を苦労させないために意識すべきことです。

 

客観性と当事者意識

「読者を苦労させない」というのが、小論文の形式面で意識すべきことでした。次は内容についての話です。

まず大事なことは、小論文で主張する事柄には客観性がなければならない、ということです。「あなたはそうかも知れないけど皆がみんな同じだとは限らないよ?」と反論されるようなものであってはいけないということです。
よく「小論文には自分の体験を書いてはいけない」と言われます。私はこの通説には少々懐疑的なのですが、例えば「自分は高校時代制服を着るのが嫌だった。だから制服は廃止すべきである」というような主張に客観性が無いというのは間違いないでしょう。制服の廃止を主張するのであれば、自分や自分の通っていた学校のことだけでなく、全ての学校で一律に制服を廃止すべきである理由、そして制服を廃止することによって生じるデメリットへの対策などを述べなければ、客観性のある主張とは認められません。

よい小論文を書くためにはこのような客観性に加えて、提示された問題についての当事者意識が必要になります。「課題文型小論文」であれば、その課題文の筆者の(より正確に言うならばその課題文を受験生に読ませたいと思った大学の先生の)問題意識を共有し、自分の問題として、その問題について向き合っているかどうかが評価されます。
「現代はグローバル化が進み、個々の国の文化の多様性が失われつつある」という課題文があったとして、文化の多様性が失われるということを自分の問題として真剣に受け止めていなければ、よい小論文にはなりにくい。入試小論文ではまさにその大学の学生が考えるべき事柄についての意見が求められているのだから、そこで提示された問題を自分のこととして受け止められていないというのは、端的にその大学にはあまり向いていないということになってしまいます。

厄介なのは、今言った客観性と当事者意識というのが相反する要素だと言う点です。
「終末期医療を受ける患者に対して看護師はどのように接するべきか」という問いに対して、身内に終末期医療を受けた(もしくは現在進行形で受けている)人間がいるという受験生は強い当事者意識を持って答えることができるでしょう。しかし、だからこそ自分の想いが強すぎるあまり客観性を欠いた答案になってしまう危険があります。かといって、あまりにも客観的で「いつでも・どこでも・誰にとっても」正しいと言えてしまうような答案は当事者意識に乏しく(誰にとっても正しい答えは誰でも言えるものであってその人自身の切実な問題意識から出てきた答えとは見なされにくい)、それはそれであまり魅力の無いものになってしまう。

良い小論文とは、①出題者の意図を理解した回答になっており、②読者があまり苦労せずに読むことができて、③ある程度客観的に正しいと認められるような論拠を伴った、④問われている事柄を自分自身にとって切実な問題として考えていることがわかるような文章、というようにまとめることができます。

 

問題意識を持つためには―不自由の自覚―

最後に、小論文で問われる内容についてどうすれば当事者意識を持てるのか、というヒントを書いておきます。

小論文で問われるテーマは多岐にわたっていて、受験する大学によっても、学部学科によっても問われる問題も違えば、選抜基準も異なります。間違いなく言えることは、志望する学部学科で学ぶ(というより皆さん自身が「学びたいと思っている」はずの)内容に関連する本をできるだけたくさん読んでおくべきだということです。とは言え、本を読んでも、その本を書いた人間の問題意識を理解できなければ、つまり、当事者意識を持っていなければ、読んで理解した内容も結局は自分の問題として理解することができないということに変わりはない、ということになります。

みなさんが志望校・学部学科で学ぶ予定の内容が、みなさんの将来の仕事に直接関わるものであるなら(例えば看護や教育、工学系など)、なぜ自分がその仕事に興味を持っているかをよく考えることです。あなたがある仕事に興味を持ったきっかけを深く掘り下げていけば、あなた自身の問題意識が何であるかがわかってくるはずです。

将来の職業に直接関わらないような学部学科を志望しているのであれば、より大きく「何のために学ぶのか」を考えてみましょう。
理系に進む人は、どちらかと言えば客観的で普遍的な法則を明らかにすることに興味を持っている人が多いように感じます。近代科学の魅力はそこにあります。一方で、科学的な思考の限界や問題点がどこにあるかについても理解を深めておく必要もあると思います。科学には何ができて何ができないのか、科学的知が現代社会に不可欠なものであるからこそ、その限界について自覚的であるべきでしょう。

文系の学問は、突き詰めれば「自由」を追求するものです。例えば社会学は、これまで当たり前に受け入れられてきた常識が、実は自分たちの自由を不当に束縛するものであり、それは変革し得るものなのだということを示してきました。さっき言ったような「文化の多様性を守るべき」というのも、世界から多様性が失われれば、その分だけ私たちの自由が脅かされるという問題意識から出て来た主張です。
あなた自身が感じている「不自由」の自覚は、人間社会に対する問題意識へと成長する可能性を秘めています。身近なことでも、些細に思えることでも、「不自由」を言語化してみてください。そしてそれが不当な「不自由」であることを、他者に理解してもらえるような論理を考えてみてください。そのようにして自分の言葉を洗練させていくことが、実はあらゆる学問的関心の萌芽なのです。

 

補足

小論文は「どのような意見を書くかは問題ではなく、論理的な構成で書くことができていれば良い」と思っている人がたまにいます。原則的にはその通りなのですが、大学の入試である以上、大学という場で容認されない意見というのはあり得ると思っておいた方が良いです。例えば教育学部を志望する受験生が「いじめはいじめられる側にも問題がある」などと書くのはやめておいた方が無難でしょう。基本的に、日本の法、特に日本国憲法の三大原則(主権在民・平和主義・基本的人権の尊重)を否定するのはダメ、と考えておけば良いと思います。