GTOにも金八にもヤンクミにもなれなかった人のブログ

主に国語(現代文・小論文)の授業について

垣内の小論文講座 第2回

お世話になっています。垣内玲です。

 

rei-kakiuchi-kokugo.hatenablog.com

 

前回からかなり時間が空いてしまいましたが、小論講座の第2回です。今回も1名、投稿を頂きました。ありがとうございます。

 

本文解説&解答作り

今回今回書いてもらったのは首都大学東京(2015)の現代文第3問、課題文は玄田有史氏の『希望のつくり方』でした。

前回の長田弘さんの文章もそうですが、言葉は柔らかくても内容はそれなりに高度で、しかもあまり論理的にも明瞭とは言い難い文章なので、ポイントがどこにあるのかが見えにくかったかもしれません。

 

挫折や失敗の一切ない物語はありません。あったとしても、おもしろくありません。その人が挫折を乗り越えるという体験があって、はじめて未来を語る言葉に彩りは増します。

 

古典作品の多くがそうであるように、語り継がれてきた物語は、どこかつねに相反する両義的な要素などが含まれ、そこに多様な解釈の余地が残されています。

 

この辺り、筆者の論旨が一貫しているようなそうでないような、それこそ「両義的」な解釈の余地があり、それがこの文章のある種の魅力でもあります。しかし、一方で受験生としては400字という少ない字数で採点者に自分の意見が伝わるように書かなければならないわけですから、課題文をひとつの視点から読み解き、自分の主張もひとつのポイントに絞ってコンパクトにまとめるという工夫が必要になるでしょう。

 

私の考えるところでは、①失敗や挫折を乗り越えた物語が将来への「希望」につながるというポイントか、②物語には多様な解釈があり得、それが「希望」につながるというポイントのどちらかにスポットをあてて本文を要約し、それに対する自分の考えたことを述べるという形が最も無難でしょう。

 

「本文の要約→それを踏まえた自分の意見」という構成で小論文の解答を作るときに、どうしても「要約」のなかからこぼれ落ちるものが出てきてしまうのは避けられないことがあります。要約という作業自体、本文の何かを切り捨てるものですから、要約した内容が、本文中のそこそこ重要なポイントを切り捨てているということ自体は致し方ない部分がある。問題は、何かを切り捨てて作られた「要約」が、出題者の意図に沿ったものであるか否か、です。

この問題に関して言えば、いわゆる文系不要論への批判を意図した出題なのかなという印象が私にはあります。したがって、大学で学ぼうとするものとして、「物語」の価値を理解しているのだということを出題者にアピールすることが出来れば、最大の関門はクリアしたことになるのではないかと考えます。

 

投稿された解答とフィードバック

それでは、投稿された解答を読んでみたいと思います。前回も投稿してくださった方で、便宜上西村様と名乗って頂いているので、記事内でも西村様と呼ばせて頂きます。

 

現在、社会はより自由になり多くの希望が示されるのに対してそれに付随する物語は貧しくなっている。例えば、彼女が欲しい一人の男性。彼に示される希望は、一つに筋トレがある。筋肉は心理学の研究成果も示すように、魅力的な男性の大きな要素である。さらに科学の示す効率的な筋肉の発達が彼をマッチョにし、結果、彼女ができたとする。この一連の流れに物語はあっただろうか私たちは希望を結果と履き違え物語欠乏に陥っている。物語を重視せず目先の結果ばかりにつられることは私たちが自由になった証でもあるが、自由は結果を着飾るためではなく、自分自信の物語をより豊かにするためにあるのだ。私たちは絶対的に自分の人生を生きる。その上で、他人との比較でしかない「結果」が、その人限りの物語に比べなんとちっぽけなものか。どんなちっぽけな「結果」しか得られなくとも、たった一つの物語こそが真に価値のある人生なのだ。

 

現代社会の一面をよく捉えた内容だと思います。西村様が書こうとしていたのは「社会が豊かになって自由は拡大しているはずなのに、人々は似たような価値を追求しているために“物語”は貧しくなっている」ということでしょうか。國分功一郎の「贅沢を取り戻す」という評論を思い出しました。

 

さて、フィードバックですが、
本文との関連をより明確にしたいですね。筆者は「過去の挫折や失敗などの紆余曲折を無駄なものと切り捨てることなく、物語として語ることが出来る人間が将来に希望を持つことができる」ということを言っています。解答もその筆者の主張に関連したものであるべきなのです。

西村様の解答は、単独の作文として読むかぎりはよくできた作品なのですが、筆者の主張との関連が不明瞭だと、小論文(これは現代文ですが)の「解答」としては成立しないんですね。小論文にせよ現代文にせよ、文章を読ませた上で何かを書けと要求しているということは、その文章を読んで理解しているということがはっきりとわかる(採点者に「自分はこの文章を理解した」とアピールできる)内容に仕上げたいところです。

 

用語の定義をわかりやすく読者に伝えられると良いと思いました。文字数が400字と少なめであるということを考えると仕方のない部分もあるのですが、西村様のいう「物語」「希望」「結果」という語の文章中での意味についての説明が曖昧になっていると思われます。

例えば冒頭の

 

社会はより自由になり多くの希望が示されるのに対してそれに付随する物語は貧しくなっている

 

という部分、

「希望」というのは、後の文章から想像するに「多様な生き方の可能性」というような意味かと想像されるのですが、ここには具体的な説明が欲しい。「それに付随する物語」という言い方も、どうも西村様独自の定義を持って「物語」という語を用いているように見受けられます。筋トレをしてマッチョになって彼女を作ることがなぜ「物語欠乏」と言えるのか、この場合「欠乏」しているのはつまり何なのかを説明する必要があろうかと思います。

 

今回もレベルの高い解答で楽しく読ませて頂きました。また近いうちに第3回を企画しようと思いますので、よろしくお願いします。

現代文勉強会報告

お世話になっています。垣内玲です。

先日、Twitterの有志の皆様と現代文の授業に関する勉強会を行いました。参加者のレベルが非常に高く、極めて活発な議論が生まれたと思います。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

今日はその報告をまとめたいと思います。

 

内容

京都大学の試験問題(2011年の文系国語大問一。素材文は長田弘氏の『失われた時代』)を参加者の皆様に事前に読んでいただき、その授業案を作るというものでした。ちなみに、その問題は東進の過去問データベースでダウンロードすることができます。

 

www.toshin-kakomon.com

 

参加者は垣内を除いて7名でした。その7名がはじめ2グループに別れ、それぞれ授業案を考えて模擬授業形式で発表、その後、発表された内容を元にした全体での議論、という流れで進めました。

 

学年設定もグループで自由に決めてもらいましたが、どちらのグループも高2の設定での発表でした。文章自体はそれほど難しいわけではない一方、ロシア革命共産主義についての基本的な知識が必要であることから、高1で世界史や現代社会を学習した後の段階で扱った方が良いだろうというところから高2という設定になったようです。

ちなみに、垣内自身は高3の夏期講習で扱ったので、そのときにどのような授業をするのかをお話ししました。

 

 

教材について 

「おまえは希望としての倫理によってではなく、事実を倫理として生きるすべをわがものとして、生きるようにせよ」

本文はこの言葉で結ばれています。

「希望としての倫理」と「事実を倫理として生きる」ことがどのように違っているかを理解できるかというのが一番のポイントになるでしょう。

「事実を倫理として生きるすべをわがものとして生き」たのが、「帽子屋」です。彼は視力を失っても、帽子を作るという自分の仕事を続けた。それが彼の「倫理」だったからです。

「帽子屋」と対比されるもう一人の登場人物が「レーニン」です。レーニンこそは「希望としての倫理」を掲げて生きた人物の典型とも言うべき存在でしょう。彼は現実の社会をあるべき姿に変革することにその生涯を捧げたのです。

ではなぜ、「希望としての倫理」に従って現実の社会を変えようとしたレーニンよりも、「帽子屋」の「血も流さなきゃ、祖国を救いもしない」生き方に筆者は共感するのか。それは、時代がどのように変化しても、「帽子屋」のような人々は〈生きるという手仕事〉を続けていくからです。帽子を作るという〈手仕事〉は、社会がどのように変化しても(共産主義の時代が来ても右翼がさかんになっても、民主主義の世になっても)続くものです。その〈手仕事〉は時代の支配者が誰であろうと干渉することのできない「自由」な領域なのです。

「事実を倫理として生きる」とは、一見現実を受け入れ、社会の趨勢に流されて生きることのように思われるけれども、実際にはそれこそが自由な生き方なのだと、筆者はそのように考えているのです。

 

 

振り返り

①教材の扱い方について 

今回取り上げた入試問題は、個人的に京大の現代文の中でも白眉の良問だと思っていて、まず文章が美しい。決して難しい文章ではなく、どちらかと言えば読みやすい。けれども内容を説明しようとすると非常に難しい、そういう問題です。説明が難しいのは、解釈の余地が広いからです。情報の質と量が豊富で、ひとつの解釈では説明し尽くせない、と言っても良い。ある視点から分かりやすく説明することはできるけれども、ひとつの視点で説明してしまうと、切り落とさなければならない部分がどうしても出てきてしまう。ある参加者の先生が「この文章は大衆批判であると同時にエリート批判でもある」とおっしゃっていたのが印象的でした。

垣内はこれを入試演習の授業で扱うので、入試のために可能な限り簡略化した解説を行うのですが、そうしてしまうとこの文章の豊かさを伝えきることができなくなるというジレンマがあります。そういう意味では、参加者のみなさんが設定したように、高2くらいの時期に時間をかけて色々な切り口から読み込んでいくという使い方をした方が、この教材の良さを活かせるだろうと思います。そんなヘビーな文章と問題に精々50分程度の制限時間で向き合わなければいけなかった京大受験生は大変だったでしょう(笑

  

②「自由」をどのように教えるか

筆者の考える「自由」が、一般的な「自由」のイメージとかなり違っているので、その点を生徒に納得してもらうためにどんな工夫をするか、というのがこの教材のひとつのポイントになるでしょう。私自身は出来るだけ生徒に身近な事例を示して考えさせるというやり方をすることが多いのですが、実際のところ、こればっかりは人生経験のようなものがないと理解できない部分もあってなかなか「これだ!」というような教え方は見つかっていません。授業の中で全てを伝えきることを目指さない方がよいのかも知れないです。

ただ、「自由」というものが、どこか遠い場所にあるのではなく、手を伸ばせば届くところにあるのだという感覚を漠然とであっても伝えることができれば良いのかなと思います。

 

③背景知識にどこまで踏み込むか

前にも述べた通り、この随筆を読むためにはロシア革命の歴史や共産主義についての知識が必要になります。そういった背景知識にどの程度踏み込むかということも授業計画を練る上で重要になってくると思われます。詳しく説明しはじめたらきりがありませんし、背景知識の説明が長くなりすぎると、生徒の方で重要なポイントがどこなのかわからなくなってしまう危険もあります。とはいえ、高邁な理想を掲げて始まった革命が陰惨な独裁政治を生んでしまったというイメージは持っておいて欲しいところですし、そこを出来るだけ簡潔に伝えられるように工夫したいところです。

 

 ④大学名に惑わされないこと

 京大というと敷居が高いように感じてしまう人も多いですが、実際読んでもらえればわかる通り、ものすごく難解な言葉が使われているわけではありません。内容的には高度なものかも知れませんが、「読めないわけではないが、説明しようとすると難しい」というのは、現代文の教材として優れているということです。自分の学校からは難関大に行く生徒はいないからと思って、東大や京大の入試問題を解いたことがないという先生も多いようですがそれは非常にもったいない。私はむしろ、基礎が固まっていない生徒こそ、東大や京大のような良質な問題にじっくりと向き合うことが大事なのだと思います。

 

 ⑤教科書の内容と受験はつながる

今回扱った長田弘氏の文章は、一見したところ捉えどころがない、まさに筆の赴くところにしたがって書かれた「随筆」に読めますけれども、実際にはかなりしっかりした論理構成を持った文章になっています。最後の一文で、「希望としての倫理」と「事実を倫理として生きる」という二項対立的な表現が用いられていて、実はこの文章全体がこの二項対立をベースにして展開していたということがわかるように作られている。だから、対比の関係に注目するという読み方が身についている生徒であれば、文中に登場する「帽子屋」が「レーニン」と、「帽子屋の営み」が「支配の言葉」と、そして帽子屋の「手」と「目」が対比の関係になっていることにも気がつくはずなのです。

そういう意味でこの入試問題は、現代文の教科書で学ぶ内容と乖離したものではないし、歴史や公民で学ぶ知識を活かして読む必要があるという点でも、高校での学びと受験がつながったものなのだということを、生徒に実感させることのできる教材であると言えます。

受験勉強と学校の勉強は違うのだという思い込みは根強いですけれども、京大のような最難関の学校は、むしろ学校の勉強を大切に考えているのだということを生徒たちに理解してもらうためにも、この教材は力を発揮するだろうと思います。

 

 

今後について

実は今回、学校で国語を教えている教員の方だけではなく、学生さんや塾で社会をメインに教えている先生、さらには教育関係者ではない一般の方にもご参加いただきました。それでも、というよりもそれだからこそ、専門の枠にとらわれない広い視野に立った議論が可能になったのだと思います。この集まりは今後も、ニーズのある限り続けていきたいと思っていますが、国語の教員のための集まりというよりは、より広く、国語に、もしくは国語を教えることに興味のある大人全般を対象としてやっていきたいと思うようになりました。

 

改めまして、ご参加いただきましたみなさま、今回は本当にありがとうございました。

垣内の小論文講座 第1回

お世話になっています。垣内玲です。

 

rei-kakiuchi-kokugo.hatenablog.com

 

上記の記事で告知致しました垣内の小論文講座ですが、早速お2人の方からの投稿がありました。ありがとうございます。というわけで、大まかな解説と、頂いた答案へのフィードバックをやっていこうと思います。

 

なお、小論文の書き方についての総論的なものは下の記事に書きましたので、まずはこちらをお読みいただけるとよいかと思います。

rei-kakiuchi-kokugo.hatenablog.com

 

 

本文解説

今回書いてもらったのは高知大学人文社会科(2018)の小論文第1問、課題文は長田弘氏の『なつかしい時間』から「会話と対話」でした。

タイトルをみれば想像がつく通り、「会話」と「対話」という2種類のコミュニケーションの対比を主軸とした随想です。「会話」と「対話」といえば、現代文Bの教科書に平田オリザ氏の「対話の精神」という評論があって、それを読んだことのある人もいるかもしれません。

筆者は「会話」と「対話」をそれほど厳密に定義しているわけではありませんが、一般的に「対話」と言った場合、「価値観や利害の異なる相手とのコミュニケーション」という意味合いが強く含まれます。

 

談判というのは、いろいろなことを始末したり、おおよそのことを取り決めたりするときに、論じ合い、談じ合って交渉すること。つまり、対話することです。

 

こういう説明からもわかるように、筆者も「対話」という語を、自分と違う立場の相手との交渉や意見交換という意味合いで用いていると考えられます。それに対して「会話」とはどのようなものか。

 

会話といっても、多くは言葉を使い捨てにするお喋りをいまは会話と言っていることが多いように思います。たがいに向き合って、違ったものの見方を重ねてみる代わりに、考え方が違えば同席せず、目が合えば衝突、喧嘩という格好になりがちなのは、結局、対話という考え方、あるいは勝海舟の言う談判の考え方こそ、この百年、時の過ぎゆくままに、この国が失いつづけてきた大事なものではなかったか、と案じるのです。

 

この部分からわかるように、筆者は(今の時代の)「会話」を「言葉を使い捨てにするお喋り」であると述べており、「たがいに向き合って、違ったものの見方を重ねてみる」「対話」を重視していることがわかります。

そして、「対話」のないところには「時と場合に応じてそれぞれの思慮分別」(傍線部)が出てこなくなってしまうという。要するに、「会話」ばかりでは人間は思慮分別を働かせなくなってしまう、つまり、アタマを使わなくなってしまうのです。

なぜ「対話」がアタマを使うことと関係するのか。それは、「対話」が自分と違う立場の相手とのコミュニケーションだからです。自分と同じような価値観や考えを共有しているという前提のもとに進められる「会話」は、相手の立場を敢えて想像するためにアタマを働かせる必要がない。アタマを働かせるためには「目の前の相手は自分とは違う考えや価値観を持っている」という前提が必要なのです。相手が自分とは違うと考えるからこそ、相手の価値観や利害をアタマを使って考える「対話」が必要だということですね。しかし、私たちの時代はその「対話」を失ってしまっているのではないか。筆者はそう問いかけるのです。

 

解答作り

小論文の書き方(超入門編)でも書いた通り、入試小論文では「インテリの価値観を共有できているか」という点が問われます。今回のテーマの場合、インテリが「対話」の重要性を説く筆者に反対するというのは非常に考えにくく、基本的には筆者の主張に沿った形で論を展開していくのが無難であろうと思われます。その際意識すべきことは、「私たちの社会が『対話』の重要性を見直していくことは私にとって重要なことである」という当事者意識を表現できているか、という点です。

「対話が大事である」というのは、はっきり言えば誰でも言えることなんです。他ならぬあなたがそれを重視するのはなぜか。

筆者が言う「対話」は、(この随想を読んでいるだけでは気づきにくいのですが)実のところかなり面倒な仕事です。自分と立場を異にする相手のことを理解し、配慮し、考えなければいけないのですから、楽なはずはありません。避けて通れるものなら避けて通りたいと思うのが実は普通のことなのです。それでもあなたは対話が大事だと主張する、それは何故なのか。

例えば自分自身が何らかの少数派的な属性(例えばLGBTであるとか、障害者であるとか)を持っているという場合であれば比較的答えやすい。少数派である自分の権利を訴えるためには、社会の多数派と少数派が対等に議論できる状況がなければならない。しかし、差し当たってそういう切迫した状況に置かれていない人たちにとって、それでも対話が必要なのだと言えるだけの当事者意識を持てるのか。まずはそこから考える必要があるでしょう。

 

投稿された解答とフィードバック

それでは、投稿されてきた解答を読んでみましょう。今回投稿者は2名でしたが、どちらも非常にレベルの高い内容です。

 

昨今はコミュニーケーションや和を積極的に重んじる性質を内面化されている。それは会話を巧みに活かす素養だ。 しかし対話の概念は逆の発想だ。自己と相手の論を思弁的に追求し、止揚する操作が求められる。 論の捨象過程に際して未熟な点は切り捨てられる。若しくは相補的な枠組みの中での変更を免れ得ない。 その過程で相手の精神を尊重しながら進めるのは、多くの精神や時間を労する。 つまり、多くのコストを際して対話を行う事は非効率と見做される時代なのだ。 しかし私は対話の回避を肯定する。 例えば、対話に際して用いられる自然言語は推論や概念操作に際して、致命的な欠点が存在する。例えば、とある単語に対して自他は同じ意味を共有しているとは限らない。しかし暗黙知として、有耶無耶なままにそれは進行する。更に出来事の認識には多様性が存在するのだ。故に言語の曖昧さと認識の多様性により事態は一層、不可解な産物になる。 つまり関係性を害するリスクを犯してまで、不可解な論の解釈を行う必然性が存在しないのだ。 そして其れらの意見表明は関係を損うリスクを負った相互理解には成るかも知れない。しかしコミュニティ全体の危機に陥る事も有り得る。 これらは融和と健全なコミュニケーションには程遠い。 それでも対話を求めるなら厳然たる統計に基づくデータ、専門家と呼ばれうる水準に至る学識乃至は学位を用意しなければならない。

 

まさかの筆者への反論!

正直このテーマで筆者に反論するという発想自体が私にはなかったので、まずはその柔軟性を評価したいですね。とはいえ、先ほども書いた通り、インテリが「対話」を軽んじるということはまず考えられないので、「つまり関係性を害するリスクを犯してまで、不可解な論の解釈を行う必然性が存在しないのだ」というのはいささかインパクトが強過ぎるかもしれません。「会話」のポジティブな側面を指摘するという方向性自体は面白いので、二項対立的に「対話」を切り捨てるというよりも、両方の利点を理解した上で、どういうときに「対話」が必要なのかを検討していくという形に修正していくのが良いでしょう。

 

次に気になるのは言葉の難しさですね。入試に出てくるような評論文にはこういう言葉遣いをするものも多いですが、学生が答案として提出するときには、どちらかといえば平易な言葉遣いの方が好まれると思います。というのも、採点者は膨大な数の答案を読まなければならないのであり、難しい言葉が使われているとそれだけで読むのが大変になってしまうからです。学校側は受験生に難しいものを読ませるくせに受験生の書いた難しい文章は読みたくないというのも勝手な話だとは思いますが、この内容は実際のところ、もっともっと平易な表現でわかりやすく、そして面白く表現できるはずなので、難しい言葉が却って文章の魅力を削いでいるとも思うんですね。可能な限りシンプルな表現で書いて、どうしてもある部分では難しい言葉を使うしかなかった、というところで格調高い言葉を使うというように心がけるとよいです。アカデミックな雰囲気の言葉は、ここ一番という見せ場でビシッと決めるときに使う、という切り札にすると良いでしょう。

 

 

会話とは仲間内で共通了解のある単語群を特定のパターンで並び替えて、言葉の羅列を投げ合っているだけであるが、対話は見知らぬ他者と行われるものであり、その共通了解を作り上げることから開始される。

アメリカのバークリー音楽大学では3年次までは音楽理論を教えられる。これは音楽という領域の中で共通了解がされているパターンの分析である。そして4年次ではその音楽理論からはみ出した領域が対象となる。その対象というのは例えば現代音楽である。ただのノイズにしか聞こえない音の並びを音楽と名付けることで音楽の領域は広げられていく。例えそれが一般的に音楽と呼ばれることがなかったとしても、その活動が音楽を自由にする働きがあることは間違い無いだろう。これは共通了解のなされていない領域に対してアプローチすることで新しい共通了解を築いていこうとする試みである。音楽において、その領域の拡大を努力せず、すでにパターンが分析されたものの組み合わせだけで音楽を消費していたら、いつからはそのパターンを消費し尽くし音楽というもの自体が見向きもされなくなるだろう。

これは言語による交流においても同様である。言語においてその領域の開発を担うのは対話である。常にわかり合うことのなかった他者との交流を通じて存在しうる範囲を広げていかなければ、音楽同様いつかは打ち捨てられてしまうだろう。

 

言語的コミュニケーションと音楽を結びつける発想、これも新鮮ですね。そして、「対話」がなければ言語そのものが衰退していくという指摘は非常に鋭いところを突いてると思います。

 

文章としてもおかしなところは無いのですが、「何のために音楽の話題を出すのか」についての説明を第2段落のはじめに書いた方がよさそうです。最後まで読めば音楽の話と言語的コミュニケーションの話がつながっていることがわかるのですが、小論文では採点者が「今何の話をしているの?」と悩まないようにしてあげることが大切です。それに関連して第2段落そのものをもう少し短くした方が良いでしょう。この小論はあくまでも言語の話がメインのはずですが、その割には音楽の話が長くなりすぎているのがもったいない。第2段落を縮小して、第3段落で「異質な他者との対話によって言語の可能性が拡大していく」という内容をもっと詳しく説明した方が構成として美しくなります。

 

細かいところでいうと、第2段落が「バークリー音楽大学」の話になっていますが、別に特定の大学の話にする必要はなくて、音楽教育一般の話としてまとめてもよいのかなと思います。

 

欲を言えばやはり、書いた人間の当事者意識、つまり、「対話は私にとって大事なのだ」というニュアンスを伝えていきたいところだなとは思います。言語が「音楽同様いつかは打ち捨てられて」しまったとして、あなたにはどんな不利益があるのか、間接的にでも伝わるような書き方ができるともっともっと魅力的な文章に仕上がるでしょう。

 

まとめ・次回予告

初回からクオリティーの高い投稿をいただいて、垣内の小論文講座も非常に順調なスタートが切れたと思っています。改めて、投稿者のお2人に感謝致します。

この調子で第2回をやっていきたいなと思いますのでよろしくお願い致します。第2回は、首都大学東京(2015)の現代文第3問を扱います。現代文の問題ではありますが400字の作文問題で、実質的には小論文です。課題文は玄田有史氏の『希望のつくり方』になります。投稿したいという方は下記のメールアドレスに(できればワードファイルを添付する形で)解答を送っていただければと思います。

 

メールアドレス:rei_kakiuchi_kokugo@yahoo.co.jp

【告知】 #垣内の小論文講座 について

お世話になっています。垣内玲です。noteに小論文対策の実践編的なものを書きたいなとずっと考えていたのですが、どうせだったら中高生とか大学生が書いたものを元にした方が面白いなと思いまして、もしツイッターのフォロワーさんで垣内に小論文の添削をして欲しいという人がいたらDMで送ってもらって(専用のメールアドレスを取得したので、DMではなく下記のアドレスに送っていただければと思います)、それを元にnoteを書いたら良い記事が書けるのではないかと思いまして、ツイッター上で #垣内の小論文講座 というのをやってみようかなと企画してみた次第です。

参加方法は簡単です。垣内が東進の大学入試過去問データベースにある入試問題の中からみなさんに解いて欲しいものを指定するので、みなさんはDMで垣内まで解答を送って下さい。それに対してフィードバックを返していきます。お代は頂きませんが、みなさんの解答やそれに対する私からのコメントがnoteに掲載される可能性があります。もちろん、お名前は伏せた状態で公開するのでその点はご心配なく。

というわけで、中高生や大学生の方で垣内に小論を添削されてやっても良いと思うみなさんはふるってご参加いただければと思います。よろしくお願いいたします。

 

東進の大学入試問題過去問データベース | 大学受験の予備校・塾 東進

 

8/6 追記

専用のメールアドレスを取得したので、解答はDMではなく下記のメールアドレス宛に送っていただければと思います。よろしくお願いいたします。

rei_kakiuchi_kokugo@yahoo.co.jp

【高校生向け】現代文の読み方(超入門編)

書き言葉を理解する難しさ

現代文の文章は日本語で書かれているのになぜこうも難しいのでしょう。ひとつの理由は、話し言葉と書き言葉の違いです。話し言葉と書き言葉は同じものではありません。話し言葉は日本で生活していればある程度自然と身につきますが、書き言葉は自然に使いこなせるようになるものではないのです。
話し言葉は「いま・ここ」にいる「私」と「あなた」とのコミュニケーションのために使われるものです。直接対面して話をするとき、私たちはお互いに何の話をしているのか、何のために話をしているのかを理解しています。だから話し言葉にはそれほどの厳密さが求められません。「ヤバい」とか「カワイイ」だけでも会話らしきものは成立するのです。
一方、書き言葉は「いま・ここ」にはいない誰かに向けて書かれます。「いま・ここ」にいない読者に、自分の考えを正しく理解してもらうためには、言葉を厳密に定義する必要が出てきます。「ヤバい」という言葉は話し言葉であればその時々の状況や発話のトーン等からプラスの意味なのかマイナスの意味なのかを判断することができますが、書き言葉ではそういう言葉を使うことができません。
また、書き言葉では主語・述語・目的語の関係を明確にしなければなりません。誰が(何が)・何を(誰を)・どうしたのかを曖昧にしてはいけないわけです。当然読む側もその関係を意識しつつ読む必要が出てきます。みなさんも、文章を読むときには主語や目的語、はじめは特に主語を強く意識して読むことを心がけてください。

理解して欲しいのは、日本語を使えることと文章を読んだり書いたりできることは同じではないということです。文章を読んで理解することに慣れていない人には、その為の訓練が必要であるという認識を持ってもらいたいと思います。

 

出題者の問題意識・価値観を共有する

とは言え、文章を読むことに慣れているからといって入試現代文が解けるとも限りません。読書は好きだけど現代文の問題は解けない、という人も少なくない。例えばみなさんは次の文章を読めるでしょうか。

 

道具と器具は、たしかに苦痛と努力を和らげた。そのために、従来は、だれの眼にも、労働に固有の緊急な必要が明らかであったのに、今やそれが曖昧になった。とはいうものの、道具と器具は、必要そのものを変えるのではない。それはただ私たちの感覚から必要を隠すのに役立つだけである。

 

別に難しい言葉は使われていません。けれども、これを読んで何の話をしているのか理解できる人はそれほど多くはなさそうです(ちなみに上の文章はハンナ・アーレントというドイツ生まれの思想家の『人間の条件』という著作の一節です)。文章を読んで理解することが出来ない最大の理由は言葉の意味がわからないことではありません。そもそも何の話をしているのかがわからないことです。
大学の先生のような、いわゆるインテリとか知識人と呼ばれる人たちは、「近代社会とは何か」とか「グローバル化の進行は私たちのアイデンティティーにどのような影響を及ぼすのか」とか「言語は私たちの思考をどのように規定しているのか」などといった問題について日々考えています。みなさんが入試現代文で読む評論文もそういったテーマを扱っています。そういう評論文の読者は、当然そのような問題に関心を持っている人たちであって、だからこそ書かれている内容も理解できるし楽しめるわけです。ところが、大学受験をしようとしているみなさんの多くは、(甚だ遺憾なことに)インテリたちが問題意識を持っているテーマに関心を持っていません。というより、考えたこともないという人がほとんどだったりする。
文章を書いた人間と、というよりも現代文の問題を作っている大学の先生たちと問題意識を共有していないのだから、文章に書かれていることの意味がわかるはずはないのです。

逆に言えば、インテリ・知識人たちの問題意識を知っていれば、どんな文章であっても「何を言っているのか」はわかります入試問題として使える文章は限られていて、実際のところそれほど多様なテーマの文章が出題されているわけではありません。さらに、あるテーマについて論じた文章の結論も概ね似たようなものになります。「近年、先進国では移民や少数民族に対する排外的な感情が高まり、ヘイトスピーチが横行している」という内容であれば、「多様性を尊重する社会を作らなければならない」という方向性の議論になります。というよりも、この論点の場合、公的な教育機関である大学が排外主義を支持することはありえないので、どうしたって差別はやめよう、互いの文化を尊重し合おうという内容の文章しか扱えません。

つまり、みなさんが現代文を読むためにまずやるべきことは、大学の先生のようなインテリ・知識人たちの問題意識や価値観を共有することである、ということです。

 

自由の追求―不自由の自覚と公共性への意識―

では、インテリ・知識人たちの問題意識と何か。敢えて一言で言えば、自由でありたい、ということです。みなさんだって不自由ではありたくないでしょう。そういう意味では、みなさんは既にインテリ・知識人たちと問題意識を共有できているとも言えます。
ただ、インテリたちは「自由であるためには、自分がいかに不自由であるかを自覚しなければならない」と考えています。生まれたときから牢屋に閉じ込められており、牢屋の中に食べ物や着るもの、1人で遊ぶためのオモチャか何かを十分に与えられている人、というのを想像してみてください。その人はお腹がすけば好きなときに好きなだけ、好きなものを食べられるとします。欲しいと思うオモチャがあれば誰かがどこかからいくらでも運んできてくれるとします。さて、この人は自由だと言えますか? …言えませんよね。この人は牢屋の中の生活に満足しているかもしれないが、牢屋の外にもっと広い世界があることを知らない。知らないまま囚人である自分に満足している。
インテリ・知識人というのは、私たちの生活をこの贅沢な牢屋に閉じ込められた囚人のようなものだと考えています。自分たちが実は不自由を強いられているのではないか。不自由であることを自覚して、贅沢な牢屋の外の世界の存在に気づかなくてはいけないのではないか。自分が実は不自由であることに気づくことで自由への可能性が開かれる。これがインテリ・知識人たちの大きな問題意識のひとつです。

私たちに不自由を強いるものとは、例えば社会です。社会を維持するためには、多かれ少なかれ個人を束縛しなければならない。では、私たちの今の社会は何のために、どのように、私たちを束縛しているのか、不必要な、不当な束縛をしてはいないか。他所の国、他所の文化には私たちの社会とは別な形の社会があり得るのではないか、あるいは遠い過去に、もっと望ましい社会が存在したことがあったのではないか。そのように今の社会のあり方を相対化することで、私たちがより自由であり得る社会の形を考えるのです。
私たちが不自由であるのは、社会のせいばかりでもありません。インテリや知識人は自由な社会のあり方を考えますが、「考える」という行為自体、言語という道具の束縛を受けます。例えば「セクハラ」という言葉が存在しなければ、その概念について考えたり議論したりすることができません(実際、この言葉が作られる前にはこれが問題であるという認識自体が社会の中で共有されていませんでした)。そもそも、人間が何かを考えたり、感じたり、認識したりする枠組みそれ自体がある種の限界を孕んでいます。犬や猫は色を識別できませんが、私たちの五感もコウモリが発する超音波を感知できない。私たちが現実を認識し、快や不快を感じる仕組みそのものが、私たちの思考や行動を束縛しています。このような問題意識から人間の言語(もしくは言語と思考の関係性)や芸術についての議論が生まれます。

不自由を自覚して、「私たちはこんなにも不自由なのだ」ということを訴えるのが評論文のひとつの役割ですが、自分が不自由であることだけを主張しているのでは子どもの不平不満と変わりません。特に、社会によって作られる不自由について議論するとなると、自分と利害が対立する相手の立場についても考える必要が出てきます。
自分が自由であるためには、他者と互いに自由を尊重しなければならない。自分とは異なる立場、異なる利害、異なる価値観を持った他者との対話が可能であるという環境を作ることが、自分の自由を、少なくとも自分の自由を求めて何ごとかを主張する権利を守ることなのです。異なる立場の他者同士が対等の立場で関わることを可能にするのが「公共性」という概念です。インテリ・知識人たちは公共性への意識を重んじます。社会の中の少数派が、公共の空間で多数派と対等に扱われ、対話が行われることを求めます。こうして、異文化を理解すること(異文化同士が理解し合うこと)や、弱者(例えば女性や障害者など)の権利を擁護することなどが、現代文のテーマとして扱われるようになるのです。

 

書かなければ読みの精度は上がらない

インテリ・知識人たちの問題意識や価値観を理解すれば、入試現代文で扱われる文章を読むことはできるようになります。とは言え、試験で点を取るためにはそれなりに精度の高い読解が求められる。精度の高い読解とは、一つひとつの段落、一つひとつの文、一つひとつの単語に込められた書き手の意図を正しく理解して、他の言葉で説明できるということです。この読解の精度を高めるには記述の問題を解くしかありません。
自分で答えを作り、模範解答(過去問題集等にはちっとも模範的でない模範解答も少なくないのですが…)を参照して読み間違えていたところや見落としていたポイントがないか確認する。そしてもう一度本文を読みなおして、改めて解答を作りなおす。この作業を繰り返すことで、一つひとつの文章を消化し吸収していく。読解の精度はこのようにして高めていくしかありません。
大事なことは、記述の解答を作るとき、例えば文字数など最初は気にしなくて良いので、まず何よりも「自分が何を書いているかわかるように書く」ということです。これはひとつには何を書いているか自分でもわからないような解答はまず間違いなくゼロ点にしかならないということと、自分が何を書いているのかわからなければ、模範解答と自分の解答を照らし合わせて自分の解答をどう修正すべきなのか自分で考えることができないからです。短くても長くなりすぎてしまっても構いません。まずは、自分がどのようなポイントを大事だと考えたのか、それを自分自身が理解できるような解答を作るようにしてください。
自分が理解したことを、自分が理解できる言葉で説明できるようになること。それが、言葉の力を高めていくための最初の、そして恐らくは最も高いハードルなのだと思います。

【高校生向け】小論文の書き方(超入門編)

小論文入試の目的

入試で小論文を課す目的は、大きく二つに分けられます。ひとつは、その大学の学生に相応しい能力があるかを測定すること。もうひとつは、その大学の学生に相応しい価値観と問題意識を持っているかを見極めることです。
小論文で測定できる能力とは、ひとつは(言うまでもなく)論理的な文章を「書く力」ですが、大抵の場合「読む力」も試されます。というのも、多くの入試小論文の問題は、何らかの文章(「課題文」と呼ばれます)を読んだ上で自分の意見を答えるという形になっているからです。

 

小論文で試される「読む力」と「書く力」

課題文を読んだ上で自分の意見を答えるタイプの試験のことを、「課題文型小論文」などと呼びます。

さて質問です。「課題文型小論文」の採点においてより重視されるのは、「読む力」でしょうか?「書く力」でしょうか?


正解は「読む力」です。小論文なのになぜ「読む力」が重視されるかって?それは、「自分の意見を書く」よりも、「相手の意見を理解し、相手の問題意識にあわせて自分の意見を書く」ことの方が何倍も難しく、大学生に求められているのはまさにそういう能力だからです。
例えば、みなさんに「死刑制度の廃止に賛成か反対か」というテーマで意見文を書いてもらうとしましょう。賛成か反対かはすぐに決められますね。そして、その理由についても、どの程度の説得力を持ったものになるかは別として、何かしら付け加えることはできますよね。自分の意見とその根拠を言うだけなら、それほど難しいことではない。
ところが、ある人が死刑制度について論じた文章を読んで、それを踏まえて意見を言うとなると小論文の難易度はグッとあがる。その文章の中で死刑制度の廃止が主張されていたとして、その根拠が何であるか、筆者がどういう問題意識で死刑に反対しているのかを理解しなければならない。
仮にその課題文の筆者が「死刑は憲法第36条で言う『残虐な刑罰』に該当する」という理由で死刑廃止を訴えていたとします。それに対して反論しようとした場合、「死刑は残虐な刑罰にはあたらない」ということを示さなければなりません。「遺族の気持ちを想えば死刑が当然である」などと書いてもダメです。課題文の筆者の論点とズレてしまっているからです。
このように、「課題文型小論文」ではまず「読む力」が問われ、課題文の内容を十分に理解した上で、自分の主張を述べるという力が試されます。その能力は「学問」の基本です。大学ではたくさんのレポートや論文を書かされることになりますが、レポートや論文というのも自分の思いつきを好き勝手に論じれば良いというものではなく、これまでの研究や調査の積み重ねを理解した上で自分なりの意見を示すということが求められているのです。
したがって、「課題文型小論文」で何よりも重要なことは、課題文の内容を理解して、必要な形で要約できることです。そういう意味で小論文も現代文の延長線上にあります。

では、小論文試験で評価される「書く力」とはどのようなものか。
一文をできるだけ短くするとか、論点をわかりやすくするために最初に結論を書くとか、パラグラフごとの要点をはっきりさせるとか、色々なテクニックがありますけれども、根底にあるのは「読者を苦労させない」ことだと考えて下さい。
一文が長過ぎると、何が書かれているのかを理解するのに時間がかかる分読む人間が苦労します。結論が最後までわからない文章よりも、最初に簡潔に何を書こうとしているのかを示してくれた方が楽に読めます。パラグラフごとの要点も、できるだけ始めに短く示してくれると苦労が減ります。内容的なことについてはこの後説明しますが、とにかく読者を苦労させないことを考えて下さい。字の丁寧さなども、読む人を苦労させないために意識すべきことです。

 

客観性と当事者意識

「読者を苦労させない」というのが、小論文の形式面で意識すべきことでした。次は内容についての話です。

まず大事なことは、小論文で主張する事柄には客観性がなければならない、ということです。「あなたはそうかも知れないけど皆がみんな同じだとは限らないよ?」と反論されるようなものであってはいけないということです。
よく「小論文には自分の体験を書いてはいけない」と言われます。私はこの通説には少々懐疑的なのですが、例えば「自分は高校時代制服を着るのが嫌だった。だから制服は廃止すべきである」というような主張に客観性が無いというのは間違いないでしょう。制服の廃止を主張するのであれば、自分や自分の通っていた学校のことだけでなく、全ての学校で一律に制服を廃止すべきである理由、そして制服を廃止することによって生じるデメリットへの対策などを述べなければ、客観性のある主張とは認められません。

よい小論文を書くためにはこのような客観性に加えて、提示された問題についての当事者意識が必要になります。「課題文型小論文」であれば、その課題文の筆者の(より正確に言うならばその課題文を受験生に読ませたいと思った大学の先生の)問題意識を共有し、自分の問題として、その問題について向き合っているかどうかが評価されます。
「現代はグローバル化が進み、個々の国の文化の多様性が失われつつある」という課題文があったとして、文化の多様性が失われるということを自分の問題として真剣に受け止めていなければ、よい小論文にはなりにくい。入試小論文ではまさにその大学の学生が考えるべき事柄についての意見が求められているのだから、そこで提示された問題を自分のこととして受け止められていないというのは、端的にその大学にはあまり向いていないということになってしまいます。

厄介なのは、今言った客観性と当事者意識というのが相反する要素だと言う点です。
「終末期医療を受ける患者に対して看護師はどのように接するべきか」という問いに対して、身内に終末期医療を受けた(もしくは現在進行形で受けている)人間がいるという受験生は強い当事者意識を持って答えることができるでしょう。しかし、だからこそ自分の想いが強すぎるあまり客観性を欠いた答案になってしまう危険があります。かといって、あまりにも客観的で「いつでも・どこでも・誰にとっても」正しいと言えてしまうような答案は当事者意識に乏しく(誰にとっても正しい答えは誰でも言えるものであってその人自身の切実な問題意識から出てきた答えとは見なされにくい)、それはそれであまり魅力の無いものになってしまう。

良い小論文とは、①出題者の意図を理解した回答になっており、②読者があまり苦労せずに読むことができて、③ある程度客観的に正しいと認められるような論拠を伴った、④問われている事柄を自分自身にとって切実な問題として考えていることがわかるような文章、というようにまとめることができます。

 

問題意識を持つためには―不自由の自覚―

最後に、小論文で問われる内容についてどうすれば当事者意識を持てるのか、というヒントを書いておきます。

小論文で問われるテーマは多岐にわたっていて、受験する大学によっても、学部学科によっても問われる問題も違えば、選抜基準も異なります。間違いなく言えることは、志望する学部学科で学ぶ(というより皆さん自身が「学びたいと思っている」はずの)内容に関連する本をできるだけたくさん読んでおくべきだということです。とは言え、本を読んでも、その本を書いた人間の問題意識を理解できなければ、つまり、当事者意識を持っていなければ、読んで理解した内容も結局は自分の問題として理解することができないということに変わりはない、ということになります。

みなさんが志望校・学部学科で学ぶ予定の内容が、みなさんの将来の仕事に直接関わるものであるなら(例えば看護や教育、工学系など)、なぜ自分がその仕事に興味を持っているかをよく考えることです。あなたがある仕事に興味を持ったきっかけを深く掘り下げていけば、あなた自身の問題意識が何であるかがわかってくるはずです。

将来の職業に直接関わらないような学部学科を志望しているのであれば、より大きく「何のために学ぶのか」を考えてみましょう。
理系に進む人は、どちらかと言えば客観的で普遍的な法則を明らかにすることに興味を持っている人が多いように感じます。近代科学の魅力はそこにあります。一方で、科学的な思考の限界や問題点がどこにあるかについても理解を深めておく必要もあると思います。科学には何ができて何ができないのか、科学的知が現代社会に不可欠なものであるからこそ、その限界について自覚的であるべきでしょう。

文系の学問は、突き詰めれば「自由」を追求するものです。例えば社会学は、これまで当たり前に受け入れられてきた常識が、実は自分たちの自由を不当に束縛するものであり、それは変革し得るものなのだということを示してきました。さっき言ったような「文化の多様性を守るべき」というのも、世界から多様性が失われれば、その分だけ私たちの自由が脅かされるという問題意識から出て来た主張です。
あなた自身が感じている「不自由」の自覚は、人間社会に対する問題意識へと成長する可能性を秘めています。身近なことでも、些細に思えることでも、「不自由」を言語化してみてください。そしてそれが不当な「不自由」であることを、他者に理解してもらえるような論理を考えてみてください。そのようにして自分の言葉を洗練させていくことが、実はあらゆる学問的関心の萌芽なのです。

 

補足

小論文は「どのような意見を書くかは問題ではなく、論理的な構成で書くことができていれば良い」と思っている人がたまにいます。原則的にはその通りなのですが、大学の入試である以上、大学という場で容認されない意見というのはあり得ると思っておいた方が良いです。例えば教育学部を志望する受験生が「いじめはいじめられる側にも問題がある」などと書くのはやめておいた方が無難でしょう。基本的に、日本の法、特に日本国憲法の三大原則(主権在民・平和主義・基本的人権の尊重)を否定するのはダメ、と考えておけば良いと思います。

評論文の指導について(2)

rei-kakiuchi-kokugo.hatenablog.com

前回からの続きです。

 

前回の記事で私は「評論は常識を疑うところから始まる」と書いたが、この表現は必ずしも正確ではない。常識を疑うことは、評論の始まりであると同時に究極の目的でもあるからだ。「常識を疑え!」と教えるだけで生徒が常識を疑ってくれるようになるなら苦労はない。
常識を疑うことが難しいのは、自分の思考がどの程度常識に支配されているかを自覚できないからである。自分の意見がいつ、どこで、何者の影響を受けて形成されたものなのか明瞭に認識しているのであれば、その人は常識の支配から自由であると言える。いつ、どこで、誰の影響によって作られたのかわからないパースペクティブを常識と呼ぶのであり、自分が無自覚に受け取ってきたパースペクティブの由来を解明することは、それ自体が常識を疑い、自分に固有の視点と問題意識を構築するプロセスである。

 

筆者は、若者の言葉遣いの乱れとされるものは彼らの自己主張のあらわれであり、若者言葉を抑圧することは社会の多様性を否定することであると述べている。私はこの筆者の考えに反対だ。確かに、若者言葉は仲間内でのコミュニケーションには有効なのかもしれない。しかし、そのような言葉遣いは社会に出て年齢の離れた相手や、違う環境で育った相手との対話には向かない。社会に出て活躍するためには、正しい言葉遣いを学ぶ必要がある。

 

例えば生徒がこのような意見を書いてきたときに、彼(彼女)の思考を支配している常識を可視化・相対化することが教員の役割である。

ここに伏流しているのは「正しい言葉遣い」なるものを自明の前提とする常識である。「正しい言葉遣い」なるものは(それが存在するのだとして)、いつ、誰が、どのような目的で作ったものなのか、まずは考えさせる。
日本の歴史上、標準語なるものが必要となったのは明治時代からである。それは日本を国民国家たらしめる目的から生じた必要性である。

例えばこのようにして、私たちが「近代」という時代の、そしてその延長線上にある現代社会の中で形成されたパラダイムの強力な影響下にあるという自覚を持たせる。「近代」を批判する評論を理解するためには、自分たちの生活がどれほど「近代」の制約を受けているかを自覚しなければならない。そして、「近代」の負の側面について改善の可能性があること、あるいは改善が難しいとしても問題点を言語化して整理することで、少なくともそこに向き合うことが可能になるということを理解しなければならない。その気付きをどのように与えていくかという点に工夫が求められる。

子どもたちは実際のところ、あまり「困っていない」。

近代合理主義が人間の生活を平板化し、匿名的な社会制度が個人を疎外しようと、資本主義の発達によって人間が消費者という没個性な単位に還元されようと、伝統的な共同体のしがらみから自由になった人々がアイデンティティーの基盤を失って存在論的不安を抱えるようになろうと、中高生たちはそのことを特段問題視していない。彼らが生まれたときから現代社会はそのようなものだったのだし、そのような社会の中で生じる違和感を抑圧することが、あるいは彼らが平和に生きるための知恵だったのかも知れない(私はそれを必ずしも否定できない)。

評論を理解するために、まずはその文章の背景にある問題意識が共有されなければならない。それはとりもなおさず、生徒たち自身が現代社会の諸問題に現に直面しており、好むと好まざるとに関わらず、自分たちがすでに戦いに巻き込まれているのだという自覚を持たせることである。
生徒はそれぞれ、能力も違えば興味関心も異なっているし、教科書や入試で取り上げられるような評論のテーマに直接関連する問題意識を持っているとは限らない。ただ、生徒たちは何らかの意味で「不自由」を感じている。自分が不自由であると認識しているかどうかは別として、完全な自由を享受している人間はいない。生徒たちが評論に関心を持つ契機は、この不自由を自覚したところにあるのではないかと、私は考えている。
学校には様々な不自由があるだろう。学業に追われる不自由、校則による不自由、クラスや部活動の人間関係から生じる不自由、これらの不自由と無縁であったとしても、能力的な限界によって生じる不自由があり得るし、それさえ克服したとしても尚、より高い次元の不自由が現れる。あらゆる不自由から自由になれば、今度はその自由をどのように使うべきなのかに悩む。人間である以上、どこかのレベルにおいて不自由であるはずだし、その不自由を自覚させ、かつそれと向き合うことに意味があると理解させることが、評論文筆者の、そしてその評論を受験生に読ませようとする大学の教員たちの世界を解釈する視点と問題意識を共有することなのだろうと思う。

全ての生徒が、少なくとも潜在的に不自由を感じている。自分がいかに不自由であるかを自覚することは、自由になるための最初の一歩である。自由への一歩は、多くの場合歓びよりは苦痛を伴うものなのかも知れない。だからこそ、教員が子どもたちをリードする必要があるのだとも言える。