GTOにも金八にもヤンクミにもなれなかった人のブログ

主に国語(現代文・小論文)の授業について

現代文勉強会報告

お世話になっています。垣内玲です。

先日、Twitterの有志の皆様と現代文の授業に関する勉強会を行いました。参加者のレベルが非常に高く、極めて活発な議論が生まれたと思います。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

今日はその報告をまとめたいと思います。

 

内容

京都大学の試験問題(2011年の文系国語大問一。素材文は長田弘氏の『失われた時代』)を参加者の皆様に事前に読んでいただき、その授業案を作るというものでした。ちなみに、その問題は東進の過去問データベースでダウンロードすることができます。

 

www.toshin-kakomon.com

 

参加者は垣内を除いて7名でした。その7名がはじめ2グループに別れ、それぞれ授業案を考えて模擬授業形式で発表、その後、発表された内容を元にした全体での議論、という流れで進めました。

 

学年設定もグループで自由に決めてもらいましたが、どちらのグループも高2の設定での発表でした。文章自体はそれほど難しいわけではない一方、ロシア革命共産主義についての基本的な知識が必要であることから、高1で世界史や現代社会を学習した後の段階で扱った方が良いだろうというところから高2という設定になったようです。

ちなみに、垣内自身は高3の夏期講習で扱ったので、そのときにどのような授業をするのかをお話ししました。

 

 

教材について 

「おまえは希望としての倫理によってではなく、事実を倫理として生きるすべをわがものとして、生きるようにせよ」

本文はこの言葉で結ばれています。

「希望としての倫理」と「事実を倫理として生きる」ことがどのように違っているかを理解できるかというのが一番のポイントになるでしょう。

「事実を倫理として生きるすべをわがものとして生き」たのが、「帽子屋」です。彼は視力を失っても、帽子を作るという自分の仕事を続けた。それが彼の「倫理」だったからです。

「帽子屋」と対比されるもう一人の登場人物が「レーニン」です。レーニンこそは「希望としての倫理」を掲げて生きた人物の典型とも言うべき存在でしょう。彼は現実の社会をあるべき姿に変革することにその生涯を捧げたのです。

ではなぜ、「希望としての倫理」に従って現実の社会を変えようとしたレーニンよりも、「帽子屋」の「血も流さなきゃ、祖国を救いもしない」生き方に筆者は共感するのか。それは、時代がどのように変化しても、「帽子屋」のような人々は〈生きるという手仕事〉を続けていくからです。帽子を作るという〈手仕事〉は、社会がどのように変化しても(共産主義の時代が来ても右翼がさかんになっても、民主主義の世になっても)続くものです。その〈手仕事〉は時代の支配者が誰であろうと干渉することのできない「自由」な領域なのです。

「事実を倫理として生きる」とは、一見現実を受け入れ、社会の趨勢に流されて生きることのように思われるけれども、実際にはそれこそが自由な生き方なのだと、筆者はそのように考えているのです。

 

 

振り返り

①教材の扱い方について 

今回取り上げた入試問題は、個人的に京大の現代文の中でも白眉の良問だと思っていて、まず文章が美しい。決して難しい文章ではなく、どちらかと言えば読みやすい。けれども内容を説明しようとすると非常に難しい、そういう問題です。説明が難しいのは、解釈の余地が広いからです。情報の質と量が豊富で、ひとつの解釈では説明し尽くせない、と言っても良い。ある視点から分かりやすく説明することはできるけれども、ひとつの視点で説明してしまうと、切り落とさなければならない部分がどうしても出てきてしまう。ある参加者の先生が「この文章は大衆批判であると同時にエリート批判でもある」とおっしゃっていたのが印象的でした。

垣内はこれを入試演習の授業で扱うので、入試のために可能な限り簡略化した解説を行うのですが、そうしてしまうとこの文章の豊かさを伝えきることができなくなるというジレンマがあります。そういう意味では、参加者のみなさんが設定したように、高2くらいの時期に時間をかけて色々な切り口から読み込んでいくという使い方をした方が、この教材の良さを活かせるだろうと思います。そんなヘビーな文章と問題に精々50分程度の制限時間で向き合わなければいけなかった京大受験生は大変だったでしょう(笑

  

②「自由」をどのように教えるか

筆者の考える「自由」が、一般的な「自由」のイメージとかなり違っているので、その点を生徒に納得してもらうためにどんな工夫をするか、というのがこの教材のひとつのポイントになるでしょう。私自身は出来るだけ生徒に身近な事例を示して考えさせるというやり方をすることが多いのですが、実際のところ、こればっかりは人生経験のようなものがないと理解できない部分もあってなかなか「これだ!」というような教え方は見つかっていません。授業の中で全てを伝えきることを目指さない方がよいのかも知れないです。

ただ、「自由」というものが、どこか遠い場所にあるのではなく、手を伸ばせば届くところにあるのだという感覚を漠然とであっても伝えることができれば良いのかなと思います。

 

③背景知識にどこまで踏み込むか

前にも述べた通り、この随筆を読むためにはロシア革命の歴史や共産主義についての知識が必要になります。そういった背景知識にどの程度踏み込むかということも授業計画を練る上で重要になってくると思われます。詳しく説明しはじめたらきりがありませんし、背景知識の説明が長くなりすぎると、生徒の方で重要なポイントがどこなのかわからなくなってしまう危険もあります。とはいえ、高邁な理想を掲げて始まった革命が陰惨な独裁政治を生んでしまったというイメージは持っておいて欲しいところですし、そこを出来るだけ簡潔に伝えられるように工夫したいところです。

 

 ④大学名に惑わされないこと

 京大というと敷居が高いように感じてしまう人も多いですが、実際読んでもらえればわかる通り、ものすごく難解な言葉が使われているわけではありません。内容的には高度なものかも知れませんが、「読めないわけではないが、説明しようとすると難しい」というのは、現代文の教材として優れているということです。自分の学校からは難関大に行く生徒はいないからと思って、東大や京大の入試問題を解いたことがないという先生も多いようですがそれは非常にもったいない。私はむしろ、基礎が固まっていない生徒こそ、東大や京大のような良質な問題にじっくりと向き合うことが大事なのだと思います。

 

 ⑤教科書の内容と受験はつながる

今回扱った長田弘氏の文章は、一見したところ捉えどころがない、まさに筆の赴くところにしたがって書かれた「随筆」に読めますけれども、実際にはかなりしっかりした論理構成を持った文章になっています。最後の一文で、「希望としての倫理」と「事実を倫理として生きる」という二項対立的な表現が用いられていて、実はこの文章全体がこの二項対立をベースにして展開していたということがわかるように作られている。だから、対比の関係に注目するという読み方が身についている生徒であれば、文中に登場する「帽子屋」が「レーニン」と、「帽子屋の営み」が「支配の言葉」と、そして帽子屋の「手」と「目」が対比の関係になっていることにも気がつくはずなのです。

そういう意味でこの入試問題は、現代文の教科書で学ぶ内容と乖離したものではないし、歴史や公民で学ぶ知識を活かして読む必要があるという点でも、高校での学びと受験がつながったものなのだということを、生徒に実感させることのできる教材であると言えます。

受験勉強と学校の勉強は違うのだという思い込みは根強いですけれども、京大のような最難関の学校は、むしろ学校の勉強を大切に考えているのだということを生徒たちに理解してもらうためにも、この教材は力を発揮するだろうと思います。

 

 

今後について

実は今回、学校で国語を教えている教員の方だけではなく、学生さんや塾で社会をメインに教えている先生、さらには教育関係者ではない一般の方にもご参加いただきました。それでも、というよりもそれだからこそ、専門の枠にとらわれない広い視野に立った議論が可能になったのだと思います。この集まりは今後も、ニーズのある限り続けていきたいと思っていますが、国語の教員のための集まりというよりは、より広く、国語に、もしくは国語を教えることに興味のある大人全般を対象としてやっていきたいと思うようになりました。

 

改めまして、ご参加いただきましたみなさま、今回は本当にありがとうございました。