GTOにも金八にもヤンクミにもなれなかった人のブログ

主に国語(現代文・小論文)の授業について

評論文の指導について(1)

評論は常識を疑うところから始まる。「常識を疑うこと」の重要性は、それ自体が評論文の主要なテーマのひとつとなる。常識を疑うことは哲学の始まりであり、哲学の始まりは学問の始まりである。だから、アカデミズムの世界では常識を疑うことの意義が繰り返し説かれる。

常識を疑うことの重要性、あるいは常識を疑うことの難しさを論じた文章を生徒が理解するには、生徒自身が常識を疑うことの意義を実感しなければならない。ところが、生徒は、というより多くの人は、常識を疑う必要性を感じていない。というよりも、常識を疑うことは普通の人にとって苦痛なのだ。多くの教員はその事実をあまり正しく認識していないように思われてならない。勉強してたくさんのことを学んで、それまで当たり前に受け入れてきた偏見を覆され、視野が広がり、世界が広がっていくことは、誰にとっても無条件に歓びであるような経験ではない。
そもそも、常識を疑い、それまで自明のものとして受け取ってきた世界観を揺るがされることは、今日と同じ明日が来ることをもはや無邪気に信じられなくなるということである。それが一般論として苦痛であるという事実を、教員は正しく理解しなければならない。生徒が勉強をしないのは、勉強自体が辛いからというだけでなく、勉強によって得られる報酬それ自体に魅力を感じていない可能性を考える必要があるのだ。

ただ、それでも、常識は疑われなければならない。

常識とは、人が無自覚に身につけた世界観である。自分がどのような立ち位置から、どのような問題意識を持って世界を解釈しているのかを自覚しない人間は、主体性を持った個人である「私」として世界の中に立ち位置を作ることができない。
自律した個人としての「私」の独自性は、「私」がもつ視点と問題意識の独自性によって保証される。「私」と同じ場所に立って同じ問題意識を持って世界を解釈する主体が、「私」の他にもうひとり存在するということはあり得ないからである。言い換えるなら、自分に固有の視点と問題意識がどのようなものであるかを自覚しない者は、固有の意味と価値を有する「私」として世界の中に居場所を得ることができず、したがってそのような人物は「私」として世界に現れることができず、自律した個人として存在することができないということに他ならない。
自分が世界を解釈する視点と問題意識が、どこまでも自分の立っている場所から見えている景色でしかなく、他者の立ち位置からは違う世界が見えているということを想像できない人間とは、すなわち自らの「偏見」に無自覚な人間である。そのような人間は、自分の思考や価値観が、特定の偏ったパースペクティブに由来するものであることを知らず、したがって偏った思考や価値観に基づく行動について、自らの責任を引き受けることができない。
自分の目に見えている景色が世界の全てであると思っている人間は、自分の行動が常に自分の意図した通りに理解されるはずであることを疑い得ないし、自分の意図した正しい動機に基づく行動の正しさを疑うことができない。自らの正しさを疑うことができなければ、自らの行動の責任を引き受けることもできない。その人物の責任感、というような性格的な問題とは無関係に、原理的に言って、自律した個人となっていない人物が自らの行動に責任を取ることは不可能なのだ。自らの行為の責任を引き受けるのは、自らの行為が社会的にどのような意味と価値を持つのかを自覚できる主体だけである。

自らの行為に責任を引き受ける主体として世界の中に居場所を得るには、無自覚のうちに誰かから与えられた常識を相対化し、改めて自分がいま、どこにいて、どのような問題意識をもって世界を解釈しているのかを自覚し、自らの意志によって自分に固有のパースペクティブを構築しなければならない。そうすることによって、人は初めて世界の中に居場所を持って自らの責任を引き受ける「私」として存在することができる。

無自覚のうちに与えられた世界観のなかに安住し、一生その「常識」の枠組みの中で、今日と同じ明日が来ることを信じて生きていたいという生徒は少なくないだろう。というより、多くの大人が現にそのようにして生きているのだ。けれども、その願いを認めることはできない。日本は民主主義国家であり、国民には主権者としての責任が要求されているからである。生徒自身が望もうと望むまいと、「無自覚に作り上げた偏見のコレクション」は破棄しなければならないし、責任を引き受ける主体としての自覚を持たなければならない。常識を疑うことの重要性は、生徒がその自覚に目覚めたときに自ずと理解されることだろう。

国語教師の役割について

我々は言葉を学ぶことで、世界を記述しそこに生起する出来事に意味と価値を付与し、他者と共同してコミュニティーを立ち上げることが可能になる。言い換えるならば、言葉の力とは個人がコミュニティーを形成するための資質の総体を指す。「国語力」とは、個人が国民国家日本というコミュニティーのフルメンバーとして参与することができるだけの言葉の力を意味している。

言葉の力について議論するときに、抽象的な「読解力」や「文章力」という概念を想定することは、私にはあまり意味の無いことのように思われる。言葉はあるコミュニティーのなかで共有されることで意味を持つのであり、「読解力」も「文章力」もそのコミュニティーのなかで流通する言葉をどう扱うかという問題であり、コミュニティーの文脈と切り離すことが可能な普遍的な読み書きの力というものが存在しているのかどうか甚だ疑わしい。同じ日本語を話す日本人でも、生育環境も居住地も現在の職業も社会的地位も何もかもが違っている相手と言葉によるコミュニケーションを成立させることは難しい。それが可能であるとすれば、その両者の間で「自分たちは(言葉による)対話や議論を通して一定の合意を形成しなければならない」という共通認識が生まれたときであろうが、その場合、その議論に参加する者はすでにひとつのコミュニティーを形成したのであり、異なるコミュニティーに所属する他者同士が、特段の必要性も無く言葉によって何ごとかを理解し合うという状況を、少なくとも私はこの目で見たことはない。

言葉が通じるのは、基本的には自分が所属するコミュニティーの内部だけである。というより、言葉というのは本来的には自分が所属する共同体内部のコミュニケーションを円滑に進めるための補助的ツールだったのではないかと私は考えている。ただ、コミュニケーションにおいて補助的な役割を担っていた言語は、それが音声や文字という形で外化されることで、所属するコミュニティーの外部にも(部分的に)共有可能な形に発達していった。いわゆる「共通語」である。「共通語」は母語とは違う発達をするものだから、系統的な学習によって身につけなければならない。一定水準の教育を受けることで「共通語」は習得され、「共通語」を習得した個人は、自分がどのようなコミュニティーに参加するかについての選択肢が格段に広がる。「ヤバい」とか「かわいい」のような言葉だけで会話が成立するコミュニティーは居心地が良いだろうとは思うが、「共通語」を学ばない限りそれ以外のコミュニティーに所属することは不可能なのだ。

言葉の力を個人がコミュニティーを形成するための資質の総体であると考える立場からは、いわゆる「教養」も、言葉の力という概念のなかに含まれる要素となる。モーツァルトのオペラを鑑賞できることは言葉の力の一部である。モーツァルトを好きか嫌いかは完全なる個人の趣味の問題だが、モーツァルトのオペラをどのように評価するかは(「評価」とは言語的な行為である)、その評価者があるコミュニティーのメンバーとして相応しいと認められるか否かを左右する。つまり、あるものを(個人的な好き嫌いとは別に)高く評価するか低く評価するか、そしてその評価が所属するコミュニティーの価値観と、共有されるべきとみなされる知識に裏打ちされている場合、その人物は所属するコミュニティーのなかで「教養ある人」とみなされるのである。
要するに、「教養」とはあるコミュニティーの中で共有されている知識・価値観の総体のことであり、自分が所属すべきコミュニティーにおいて「教養」とみなされる知識・価値観を身につけることは、そのコミュニティーのメンバーとして認められるために必要な条件であると言えるだろう。

このように考えると、国語教育と道徳教育は切り離せないということが明らかになる。道徳とは、それぞれに形成されるコミュニティーのなかで生まれた価値観が、(それほど体系的ではないにせよ)言語化され、固定的な規範となったもののことである。法律のように、人間社会の外部からやってきた規範とは違う。国語教育が、子どもたちが将来社会的なコミュニティーに参与するために必要な資質を養うためのものであるとするならば、彼らが所属しようとしているコミュニティー(受験指導の文脈では大学というコミュニティーということになるし、就職する生徒を指導する文脈では民間企業というコミュニティーのことを意味するだろう)の価値観を内面化させることを、国語教育は目指さなければならない。
女性の社会進出に否定的な意見を持つ生徒に対しては、少なくとも大学というコミュニティーではそのような意見が支持されることの少ないということを教えなければ、現代文の解釈を間違えたり、小論文で不適切な答案を書いてしまったりするだろう(ちなみに、これはあくまでも大学に行きたい生徒に対する指導の話であり、古風な価値観をもった民間企業に就職しようとする生徒には違うことを教えるべきである可能性はある。あくまでも自分が所属しようとするコミュニティーの価値観を理解しているか否かが問題なのであって、ある価値観に基づく主張が「正しい」かそうでないかという話をしているのではない)。

大学というコミュニティー、というよりも、インテリ・知識人たちの間で共有されている価値観を内面化しなければ、現代文の入試問題で使われる文章は読めないし、小論文にしても、インテリ・知識人の価値観をまるで知らないのにゼロベースで自分の意見を述べるなど大抵の場合不可能である。そして、「インテリ・知識人たちの間で共有されている価値観」とは、一人ひとりの違いを認め合おうとか、文化の多様性を守ろうというような価値観であり、これを内面化させる教育は道徳教育的な側面を持たざるを得ない。
それらの価値観を客観的な「知識」としてのみ教授し、生徒個人の中に内面化させることまでは求めない、というスタンスもあり得る。しかし、現実的には個人の中に内面化されていない他人の意見とは「知識」というよりは「情報」である。それは、本質的には意味も分からずに暗記した歴史年号のようなものであって、知識に昇華されていない、単なる情報をインプットして、読み書きの活動のなかで適切に応用し、アウトプットするなどという高度な情報処理能力を持った中高生などほとんどいないのだ。
結果的に、国語教育は道徳教育的な側面を持つものにならざるを得ない。ひとつ言い訳をするなら、国語に限らず、あらゆる教育は道徳教育である。とりわけ、いわゆる教養教育は、つまるところ道徳教育である。というのも、ちょうど人間のコミュニティーから切り離すことのできる「読解力」とか「文章力」というものが存在しないように、具体的な人間のコミュニティーから切り離して論じることのできるような、抽象的・普遍的な道徳というものも存在しないからである。教養を身につけることで道徳的な人間になると言いたいのではない。自分が所属するコミュニティーにおける教養を身につけた人間のことを、我々は道徳的な人間と呼ぶのである。

言葉の力とはコミュニティーに参与する資格であり、そのコミュニティーの中で適切に行為するための技術である。それを教える我々国語教師の専門性というものがあるとすれば、人間のコミュニティーの構造に関する知識と、生徒を送り込もうとしているコミュニティーのなかで共有されている価値観についての知識なのではないかと私は考えている。

現代文の授業の基本的な考え方

現代文の授業の目的を一言で言うなら、「筆者(作者)の視点・問題意識を内面化させる」という点に尽きる。高校一年生の教科書に収録されている評論、『水の東西』を例に考えてみよう。

「筆者が何を主張しているのか」を理解させることはそこまで難しいことではない。「日本人は西洋人と違って形のないものを恐れない(だから目に見える噴水よりも「鹿おどし」を好む)」ということを言っているに過ぎない。読解法の観点で言えば、日本文化と西洋文化の対比を抑えること、日本文化の具体例が「鹿おどし」であり、西洋文化の具体例が「噴水」であることがつかめれば、高校一年生としては最低限のラインをクリアしたと言って良い。

だが、少なからぬ高校生は、これでは「わかった」とは実感できないであろう。「そもそも筆者は何故こんなことを主張しているのか」がよくわからないからである。
日本人が西洋人と違って、積極的に形無きものを恐れない心を持っているという知識にそもそもどういう価値があるのかわからない。どのような価値があるのかわからない情報をインプットして、求められる形にアウトプットすることができるようになったとしても、一般的にそれを「わかった」とは表現しないであろう。彼はその情報をどのような場面で何のために活用すればいいのかを知らない。だからこそ、「筆者はなぜこのような主張をするのか」を知らなければならない。筆者がその主張をしなければならないと感じた動機、つまり、筆者自身の体験からくる視点と、問題意識がどこにあるのかをつかまなければならない。現代文における「読む」活動は、突き詰めれば全て、その書き手の世界を解釈する視点、問題意識を理解し、自分の世界観に取り込むことを目的としている。
 
『水の東西』は、西洋近代の思想を相対化し、日本の伝統的な価値観を再評価することを意図した評論である。この点を生徒に理解させるためには、「現代」とは「近代」の諸問題が浮き彫りになった時代であること、「近代」の思想、つまり、西欧の伝統に根ざした思想の中には、「自然は人間によってコントロールされ、可視化(造形)されるべきものである」という共通認識があり、その認識が「壮大な水の造形」「目に見える水」であるところの噴水という芸術を生み出す土台となっていること、日本にはそのような西欧的な自然観とは異なる自然との付き合い方があり、現代ではそれが見直されているということなどを理解させる必要がある。

『水の東西』は短い評論ではあるが、話を広げる余地はいくらでもある。むしろ、限られた時間の中で、どの程度ポイントを絞り込んで伝えていくかを考えるべきであろう。いずれにせよ、『水の東西』に限らず、現代文の授業づくりの根幹には、「筆者(作者)の視点・問題意識の内面化」という共通した目標を据えるべきだと私は考えている。この目標さえ達成できれば、筆者が主張する内容それ自体は、大抵の場合入試などでも二度とは読まないのだから、細かいことは忘れてしまっても差し支えない。それよりも「筆者(作者)の視点・問題意識の内面化」、大学入試という文脈に絞ってよりわかりやすく言えば、「アカデミズムの世界において一般的な視点・問題意識の内面化」こそ、現代文の授業を通して徹底されるべき究極の目標であると言える。

少なくとも大学進学を希望する生徒であれば、大学の教員や、彼らが好んで読む作家の価値観・世界観を理解し、それに適応した言葉を使いこなせなければならない。大学というコミュニティーに参加するための最低条件は、大学という世界の価値観・世界観を理解し、肯定し、そのルールに従うことを表明することである。現代文の教科書や入試問題とは、そのエッセンスを取り出せば要するに「インテリ・知識人の世界に対する視点・問題意識」の集積なのであり、個々の文章に示された結論が大事なのではない。国語の教員の役割は、一見無関係にさえ見える無数の文章に、どのような共通したエッセンスが隠されているのかを可視化することであろう。

注意すべきなのは、「筆者(作者)の視点・問題意識の内面化」を強く進めることによって、生徒の思考が画一化されてしまうことである。これを避けるためには、生徒が理解したばかりの「筆者の視点・問題意識」さえも相対化するような視点を授業者が与える、という工夫があり得る。文章の内容を一通り説明した上で、筆者の主張に対する反論を書かせる、などの活動もあって良い。
とはいえ、学校の教科書や入試問題に使われる文章において、「筆者の視点・問題意識」にはそれほどたくさんのバリエーションがあるわけではない。それは学校の授業で扱われる教材という特性から言って当然のことである。まずは、それほどバリエーション豊富とは言えない「視点・問題意識」を吸収することを目標とすべきなのであって、その先のことは、中学や高校を卒業した後にも、一生かけて追求できることなのだと思う。

私の国語教育

国語教育とは、生徒が自律した個人として生きていくための土台を築き、一方で他者と共同し、コミュニティーを形成するために必要な対話能力を養うものである。自律した個人を個人として尊重し、その権利を保証するものが国家である以上、国語教育がナショナリズムの涵養をも含むものである現状はある程度容認せざるを得ない。

人が自律的な個人として、すなわち「私」としての実体を世界の中に現すためには、世界に生じる出来事を、「私」に固有の視点から記述する技術を身につける必要がある。出来事は、記述する者によって意味と価値を有する事実となり、ある出来事に意味や価値を見いだし、記述する者こそ、自律した個人としての「私」である。出来事を記述し、その出来事にどのような意味や価値があるのかを言語化する過程で、個人は他者と異なる視点を持った「私」として生成されるのである。
自律した個人としての「私」の独自性は、「私」がどのような立ち位置から、どのような問題意識を持って世界を見ているかという視点の独自性によって担保される。しかしながら、世界の中に固有の視点を持つ「私」がただ独りで存在していたとしても、その「私」の存在にはいかなる意味も価値も認められない。「私」に価値と意味を与えるのは、「私」以外の他者からの評価であり、他者の視点のなかで、より厳密に言うなら、「私」自身を含めた複数の自律的個人の視界の網目の中で、「私」は唯一無二の価値と意味を持った「私」としての存在を認められるのである。言い換えるなら、「私」が「私」として独自性を持った存在であろうとするならば、必然的に他者との関わりの中で、「私」の視点、「私」の問題意識によって見いだされた世界のありようを言語化して伝え、同時に相手の目から見える世界を承認し、共同世界として立ち上がらせていくことが必要なのである。

このような国語教育の理念を、具体的な活動に置き換えて考えるならば、「読む」活動は他者の視点と問題意識を自分の中に取り入れる活動として位置づけることができるだろう。生徒は、世界を観察する独自の視点や、世界に対する問題意識を自然に身につけるわけではない。他者の世界に対する見方を取り入れることで(具体的には、評論文や小説の書き手がどのような視点から、どのように世界を理解していたのかを学ぶことによって)、世界を解釈する視点を獲得し、それが生徒個人の体験と結びつくことで固有の問題意識を伴ったパースペクティブを発達させるのである。
世界を解釈する視点を、家庭や親しい友人関係の中で学ぶことは難しい。多くの子どもにとって、家族や友人は異なる視点や問題意識を持って自分とは違った世界を眺める他者ではなく、むしろ同じ出来事を同じ立ち位置から、同じように理解している人たちだからである(少なくとも、一般的に家族や友達という関係は、互いに強い共感によって結びつけられた関係であることが期待されているのであって、異なる視点や価値観をもった他者として接するものではない)。
ここに、学校の授業としての国語の役割がある。学校は、子どもを他者と出会わせ、他者の視点や問題意識を取り入れる役割を担う。また、他教科が世界についての一般的な知識を可能な限り客観的に伝えることを目的とするのに対して、国語は知識そのものではなく、知識を受け取るやり方、単なる情報を特定の視点・価値観・問題意識というフィルターを通して、「私」を形成する要素としての知識にまで昇華する方法を身につけさせることを目的としているのだと言える。
そして、「書く」活動は、「読む」活動の中で接した他者の視点ではなく、自分に固有の視点と問題意識から世界の出来事を記述するものであると言える。記述することによって生徒自身の問題意識は深化していく。生徒自身が、自分がどのような立ち位置から世界を眺め、解釈しているのかを自覚できるようになる。そして、自分のパースペクティブから観察された世界を、今度は自分以外の他者と共有するための表現を洗練していくのである。
大学に進学する生徒は大学というコミュニティーに所属することを目指すのだし、就職する生徒は企業なり役所といった職場のコミュニティーに所属することを目指す。人が、自分と同じコミュニティーに属する人間と、そうでない人間を区別する指標が言葉である。大学には大学の言葉(ここでいう「大学の言葉」には、大学関係者の間で共有されるテクニカルタームの集積が含まれる。つまり、ある程度のアカデミックな教養が共有されてなければ「大学の言葉」を使うことはできない。次に述べる「企業の言葉」「官庁の言葉」にも同様の事情があると言える)があり、企業には企業の言葉、官庁には官庁の言葉がある。既成のコミュニティーに新たに加えてもらうためには、まず言葉でもって、自分がそのコミュニティーのメンバーに相応しい人間であることを示さなければならない。国語教育における「書く」活動において目指されるべきは、相手に自分の感じたこと、考えたことを伝えられるようにすること、そして、相手に自分を同質の存在として認めてもらえるような表現を使いこなせるようにすることであろうと思う。
「聞く」活動と「話す」活動については、「読む」「書く」のより実践的な形態であると考えて差し支えない。自律した個人としての「私」を形成すること、コミュニティーの中に参加を認められるような言葉を使いこなせること。この二つの活動が国語教育という車の両輪であって、自分の意志や考えを持てない人間が、コミュニティーの論理に合わせることばかり考えていては、個を埋没させ、主体的に物事を考え判断する責任を引き受ける能力を失ってしまうだろう。一方、他者に自分を適切に伝え、他者を理解する努力を怠りながら、自分の目線から見た正しさばかりを主張する人間は、社会の中に居場所を得ることが極端に難しくなるだろう。国語教育は、個を確立させると同時に、個を(自覚的に)抑制し、他者と(必要な限り)恊働するための技術を身につけさせるものでなければならない。

国語教育は、生徒が個として自律し、共同体の中でその存在を認められるための下地を作るものである。ところで、人を「個」として尊重し、その権利を保証するのは国家である。天賦人権説とは理念の話であり、現実に全ての人間を個人として尊重し、基本的人権の享有を認めるのは「天」なる抽象概念ではなく現実に存在する国家である。このような認識から、私は“国”語教育がナショナリズムの涵養を目指すことを容認する。古典教育や、現代文における定番教材はナショナリズム涵養のために必要なものと考えている。ただし、ナショナリズムを子どもに教えることの危険性について、教師は十分に自覚的でなければならないことは言うまでもない。

国語教育は道徳教育と切り離されるべきであるという見方は根強い。国語の授業は道徳の授業ではないのだから、価値中立的な「読みの技術」を教えることを目的とすべきだという考えなのであろう。私も、このような主張には一定の共感を覚える。しかしながら、「読みの技術」なるものが存在するのだとして、それは価値中立的な、客観性の保証された技術であるとは、今の私には考えられない。読む、あるいは話すという行為は、ある関係性の中で行われ、その関係性の中で言葉の意味、文(発話)の意味は決定されていく。ある関係性の中で発せられた言葉が賞讃であるのに、別な関係性の中で同じ言葉が発せられたら罵倒となる、などという例は枚挙に暇が無い。そして、言語的コミュニケーションにおいて、ありとあらゆる関係性に共通した普遍的なルールというものが設定できるとは、私には考えられないのである。

私は国語教育と道徳教育は切り離すことはできないと考えている。道徳、といって語弊があるなら、ある価値観を共有する者たちの間で共有されることで、言葉は初めて意味を持つのであって、言葉それ自体のなかに意味が内在しているわけではない。言葉を理解することとは、とりもなおさずその言葉が発せられた背景にある価値観を理解することである。それを学校教育の中で行う以上、「道徳教育」と呼ばれ得る指導が不可欠であると言わざるを得ないのである。

大学に受かりたい生徒は大学の、一般企業に就職したい生徒は一般企業の「道徳」を身につけ、その道徳規範の上に成立した言語を理解し、使いこなす。およそ国語教育とはこのような過程を辿るものだと言える。

論理的正しさと政治

もし私たちの理性が、「いつでも、どこでも、誰にとっても」正しいと同意されるような究極的な真理に到達したなら、その普遍的法則をあてはめれば、人間世界のあらゆる問題に対する適切な解を求めることができるとすれば、そのとき人間社会にはある種のユートピアが建設されることになるでしょう。少なくとも近代の哲学はそのような究極的な真理が、いつの日か解き明かされるという前提のもとに「進歩」してきました。
ところが、20世紀になって進歩した人間の理性が作り出したものは、強制収容所原子爆弾だった。この事実は、それまで近代合理主義を素朴に信じてきた人々に深刻な問いを突きつけます。人間の理性は、本当に我々を正しい答えに導いてくれるのか。ホロコーストを主導したナチスの高官が、平凡で(決して知能に劣るわけでもない)職務に忠実な公務員以上の存在ではなかったという事実は、知識人たちの困惑をさらに深めました。
人類の歴史が発展する過程で、「いつでも、どこでも、誰にとっても」正しい普遍的な法則が少しずつ明らかになっていくはずだ。このような楽観的な進歩史観を受け入れている人間は、今ではそれほど多くはないでしょう。しかしながら、「いつでも、どこでも、誰にとっても」正しい普遍的な論理というものに重きを置く人間は今でもそれなりに多い。自分の主張が相手に受け入れられなかったとき、その主張の伝え方に問題があったと考える人よりは、自分の主張に論理的な弱点があったか、相手が論理的に正しい答えを受け入れられない程に狭量なのだと考える人の方が多いように感じられます。

けれども、対立する意見の持ち主を説得するために必要なものはロジックではなくレトリックです。正しい意見は、それを正しいと認め、その理路に従って行動してくれる人間がいて初めて意味を持つのであって、正しさそれ自体に価値があるのではありません。少なくとも、私たちの日常生活において直面する具体的な問題を解決するときには、論理的正しさそれ自体が単独で価値を有するということはほとんどありません。
とはいえ、世の中には、レトリックによって相手を説得したり、ある行動に突き動かしたりすることを「ズル」だと考える人が多いようです。たしかに、絶対的に正しい論理が存在し、正しい論理に従って行動すれば正しい結果がもたらされると仮定するなら、論理ではなく修辞によって相手を翻意させるのは正当なやり方とは言えないのかもしれません。しかし、実際に私たちが直面するあらゆる問題は、単一の普遍的な論理を当て嵌めることによって解決されるというものではありません。誰もが納得し、受け入れられるような論理を当て嵌めることで、誰もが納得し受け入れられるような解決が可能であるような問題など、そもそも問題の名に値しないでしょう。問題というのは、どのような対処をしてもどこかに不満が残るようなものだから問題なのです。

具体的な問題を、抽象的な論理によって解決することの根本的な難点は、今言ったようにそもそもそれがおそらく不可能であるということですが、更に危険なのは、論理による解決が、状況の中に内在する矛盾の清算、すなわち異分子の切り離しという方法に傾きがちであるという点です。
論理とは無矛盾であるがゆえに論理としての価値を持ちます。論理によって問題を解決する試みは、そこに成立している状況とそれを支える人間関係における矛盾を解消すること、つまり、論理を受け入れない人間たちや論理に整合しない人間たちを抑圧、もしくは排除することによって、問題を解決、というよりは「無かったことにする」という問題の隠蔽を意味することが非常に多い。学校現場で考えれば、いじめの隠蔽などがこれにあたります。「本校にいじめはあってはならない」という論理に矛盾する事実は切り捨てられ、隠蔽され、理念的に考えられたあるべき学校の姿を維持しようとするのです。その最たるものが、「ユダヤ人問題の最終的解決」だったとも言えるでしょう。人間社会の現実は常に無数の矛盾を内包しています。その矛盾を無くそうと試みるのは、問題の解決ではなく逃避なのです。

現実の問題を論理によって解決することのもう一つの弊害は、普遍的な論理に立脚して問題を解決しようとする限り、その問題に関わる人間たちが、問題解決に関して責任を自覚しなくなるという点です。
論理とは「私」あるいは、「私たち」の外部にあるものです。「いつでも、どこでも、誰にとっても」正しい論理なのですから、「私」あるいは「私たち」の主観と結びついていては、それはそもそも論理とは言えず、普遍性や客観性を有するものと認められません。論理は「私」や「私たち」のものではないという点にこそ価値の見いだされるものです。言い換えれば、「論理的に導き出された答え」については、それを「自分の意見」として引き受ける責任が誰にも発生しないということです。
自分の主張が論理的であり、普遍性と客観性を備えたものであると信じている人間は、たとえ自分の主張に基づく問題解決が失敗に終わっても、決してその責任を認めることはありません。「私の論理は正しい。上手くいかないのは誰かが足を引っ張っているからだ」という論法で、自分の正しさに固執する人間は、あらゆる「改革」を称揚する人々の中に数多く見いだすことができる。論理という、彼の外部から持ち込まれた普遍的正しさが否定されることはありえず、彼の計画の失敗は彼の計画を十全に理解し実行しなかった誰かの責任に帰されます。自分の意見なり計画を正しいと盲信出来る人間の図々しさは、彼の意見や計画が彼自身の思考ではなく、彼の外部にある普遍的真理という権威に由来しているという事実に起因するのです。

私たちは問題に直面したとき、私たち自身の思考と責任と判断によって、その問題に対処しなければなりません。その取り組みが成功するか失敗するかは別として、どのような結果についてもその責任を引き受ける主体が必要とされるからです。責任を引き受ける主体は、まず何よりも、自分自身に固有の思考と判断によって、問題への取り組み方を決定しなければならない。論理という「私」の外部から持ち込んだ権威にすがっている人間に、問題に対処する当事者としての責任を引き受ける能力は無いのです。

現実の問題を解決するときに必要なのは、「いつでも、どこでも、誰にとっても」正しいと認められるような普遍的なロジックではありません。その都度その都度立ち現れる具体的な状況が、どのような人間関係の内に成立しているのかを見極め、問題が生じている人間関係を動かすことで状況それ自体を変化させる「政治」によって、問題の解決を目指すべきなのです。

自分自身の判断と責任において問題解決に参加する人々の間には、本当の意味での平等が実現します。個々の能力や地位に差があるとしても、それぞれが異なる立ち位置から問題に向かい合っているのであれば、そこに参加している人間の視点(パースペクティブ)は、全ての仲間にとって等しく価値のあるものになるからです。逆に、普遍的な論理に立脚して問題の全体を上から見下ろす視点には大した価値がありません。その視点は全体を見ているが故にどこも見ておらず、その視点の持ち主には問題解決に取り組む者としての当事者性を欠いているからです。同じ問題に対して異なる立場、異なる視点をもった人々の平等なメンバーシップが形成されること。それが、「政治」的な問題解決の最大の目的であり、人間が自由である為の条件でもあるのです。

「政治」とは畢竟、平等と自由を実現する為のものです。これに対して論理による問題解決は平等とも自由とも無縁のものです。論理は、その論理を理解し使いこなせる人間に独占されるものであり、単一の論理に普遍性が認められてしまえば、人間はもはや自分の判断と責任において問題解決に取り組む主体であることを放棄し、唯一絶対の論理による問題解決のための道具に成り下がる。それは、おそらく、教育基本法が言うところの「平和で民主的な国家及び社会」とはほど遠い光景であるに違いありません。

論理の罠

「論理的思考力」なる言葉は、近年流行のフレーズではありますが、それがつまるところ何であるかについての理解が共有されているとは言い難いように思われます。
厳密に考えるなら、論理的思考を身につけるには、いわゆる「論理学」を学ぶ必要があるのだと思いますし、論理学のベースにはそれなりに高度な数学的思考が求められるはずであり、そもそも全ての人がそれを身につけるというのはどうにも現実的なこととは考えられません。私にしても、自分がどこまで論理的な思考が出来ているものか、あまり自信は無いというのが正直なところです。
私自身が「論理」というものを意識するようになったのは、多分小学校時代の終わりか、中学に入るあたりの時期、すなわち不登校の日々が始まろうとしていた頃のことだと思います。正直この時期のことはもう記憶が曖昧で、自分を不登校に追い込んだ当時の担任の顔すら今ではあまり思い出せないのですが、自分は世間に否定され続けており、世間に対して自分の正しさを訴える為には論理が必要だ、というような確信を持つようになったのを覚えています。不登校時代にはひたすら星新一の文庫を読み漁っていたのですが、思い返してみるとそれは星のアイロニカルな論理性をなんとかして自分のものにしたいという欲求に適ったものだったのかもしれません。
では、その論理によって私は自分の正しさを人に認めさせることができたか。
結論から言えばそれは出来ませんでした。第一、多くの人は論理的な主張が論理的であるということを理解出来ません。別にそういう人を馬鹿にしているわけではなく(馬鹿にしたくなる気持ちがあることは否定できないのですが)、多くの人は日常生活の中で、論理的な正しさに立脚した議論というものを必要としておらず、従ってそのために必要な能力を発達させる必要にも迫られないのです。
また、論理によって相手を黙らせることができたとしても(俗に言う「論破」ですね)、相手がこちらの意見を受け入れてくれなければ(「反論出来なくなる」ことと「受け入れる」ことは全く別)相手を自分の側に引き入れることはできません。「言っていることは正しいがお前に賛同したくはない」と言う権利は誰にでもあって、相手にそのカードを切らせてしまった時点で、正しく論理的な意見には何の価値も無くなったのだと言って良い。
論理というのは、少なくとも意見の違う相手を説得するときに補助的な役割を果たすことはあっても、メインではないのだと思います。人を説得し、自分の側に引き入れるときに求められるのはロジックではなくレトリックです。ソクラテスには怒られそうですが、今の私は「いつでも、どこでも、誰にとっても正しい」言葉というものにほとんど価値を見いだすことができない。もし仮に、そのような普遍的正しさを論理によって導き出すことが可能なのだとして、その正しさが私にとって不都合なものだったとすれば、私にはその正しさを拒否する権利があるはずだからです。

ロッコ問題というのがあります。暴走するトロッコが向かう線路の先に、5人の男が作業をしていて、トロッコがそのまま進めば5人は死ぬが、分岐点を切り替えるレバーを動かせばトロッコの進路が変わり、5人は助かるが変更された路線上にも1人の男が作業をしていてその人は死ぬ、という思考実験です。この場合、レバーを動かすのと動かさないのと、どちらが道徳的に正しいかということが議論されるわけですが、正直なところ私は、この議論に真面目に参加する気が起こりません。単純に数だけで考えるなら、5人を救う為に1人を殺すべき、としか結論出来ないでしょう。その結論が「道徳的」と言えるのかどうかは別として、5人死ぬのと1人死ぬのとを比べれば後者の方が幾分マシであるという以外の結論があり得るとは考えられない。
この議論は線路上で作業をしている人間の具体的な特徴や属性、あるいは分岐点を切り替える人物との関係性などを完全に排除したところで行われます。もし私が分岐点を切り替えるレバーを握っていたとして、切り替えた先にいる1人が私の家族とか友人であれば、5人を犠牲にしてでもその1人を助けたいと思います。それが道徳的な判断であると言えるのかはわかりませんが、そう判断する私が道徳的ではないと断罪されたとしても(この思考実験では通常、どのような判断を下したとしても法的責任は問われないことになっているので、私の判断が非難されるとしても、それは道徳的観点からのものだけになるはずです)、私にとって大切な人間の命と、見ず知らずの人たちから不道徳な人間と見なされるリスクなど比べられるはずがない。
ロッコ問題に典型的な「思考実験」は、「いつでも、どこでも、誰にとっても正しい判断とは何か」ということを議論する目的で行われるものですが、そもそもそのような判断基準があり得るのか、それが存在するのだとして、私がその正しさを、私自身の利益よりも優先しなければならない理由があるのか。

論理とは「私」の外部にあるものです。近代の合理主義は、主体であるところの「私」と客体としての観察対象を分離するところから始まりました。客体を観察し、あらゆる自然現象に共通してあてはめることの出来る法則を発見すること、これが自然科学の基本的な姿勢です。合理的な思考よって導き出される法則は、「私」とは切り離されたところに成立します。「いつでも、どこでも、誰にとっても」正しくあるべき法則が、「私」の主観性と結びついていては意味をなしません。もし、道徳的な判断基準が論理によって導き出され、「いつでも、どこでも、誰にとっても」正しく普遍的な道徳法則が発見されてしまったならば、それは取りも直さず「私」が固有の思考で物事の正邪曲直を判断する必要がなくなる、ということです。逆説的なことですが、論理的正しさを追求することは思考や思索を深めることではなく、むしろその人に固有の思考の自由を放棄することに他ならないのです。
「いつでも、どこでも、誰にとっても」正しく普遍的な道徳法則が実際に存在するのか、ということはここでは問題にはなりません。存在し得るとして、それだけを基準にして物事を考えようとするのはあまり知的な振る舞いとは言えない、という話をしています。もちろん、誰もが守るべきルールというのは設定するべきでしょう。たとえば私は体罰に反対します。それは、学校教育法でそのように規定されており、その規定は日本国憲法教育基本法の理念とも一致しており、教育学的にも体罰の悪影響が指摘されているからです。また、私は「いじめは被害者の側にも責任がある」という言説に与しません。今日の教育界の論理においてその言説は認められないからです。いま挙げたような問題について、私は実際には自分の頭を一切働かせずに自分の立場を明瞭に示すことができます。それは教員として当然の主張ではありますが、今言ったようなことはどれも、私自身の体験や思考から生まれた言葉ではない。それはどこまでも私でない誰かがロジックを積み重ねて導き出してきた結論であり、私はそれを繰り返しているだけです。
体罰の禁止やいじめの被害者の責任を問わない、というルールは、教員であれば誰もが受け入れるべき原則です。しかし、現実の教育現場で直面する問題は、原則論だけで対処出来るものばかりではない。具体的な人間関係(教員と生徒、教員と保護者、教員と教員の関係)のなかで、発生した具体的な問題を、そのつど具体的にどう解決していくかを考える。このときに初めて「私」固有の思考は駆動されるのであって、「私」の外部にある論理というのはせいぜい参考にしかなりません。いえ、論理によって、いついかなる状況にも適用可能な論理的判断なるものによって現実のあらゆる問題を解決しようとすれば、必ず綻びが生まれます。すべての状況に適用可能な論理は、すべての状況に適用可能であるが故に、どういう状況にも適応しないのです。

普遍的な真理を追求することを悪いとは言いません。それはそれで必要なことです。けれども、私たちの現実に現れる具体的な問題を解決するのは普遍的なロジックではなく、その時々の状況のなかで作られている人間関係をどう動かしていくかという「政治」なのです。

謝罪の効用

少し前のことになりますが、アイドルグループのメンバーが男性集団から暴行を受け、なぜか被害者であるはずの女性が「謝罪」をしたという奇妙な事件が起こりました。

なぜ被害者が謝罪しなければならないのかと、巷間には運営会社の対応を非難する声で溢れていましたし、私もニュースを見たときには開いた口が塞がりませんでしたが、一方で「被害者が謝罪する」という現象それ自体は決して珍しいものでもないようにも思いました。

インフルエンザに罹患して仕事を休むことになったら、復帰したときには職場の人間には「ご迷惑をおかけしました」と謝罪するのが一般的でしょう。インフルエンザに罹ったのは必ずしも私のせいではありません。それでも、一言お詫びの言葉を伝えておくことで、対人関係が円滑になるというることを知っているので、別に悪いことをした覚えはなくても謝るわけです。

謝罪とは何か。

素朴に考えれば、「悪いことをしたら謝る」というのが「謝罪」です。しかし、今言ったように人間は特に悪いことをしてなくても謝るものだし、場合によっては明らかに被害者であるはずの人間が謝罪を強要させられることさえあります。

そもそも「悪いことをした」とは何を意味するのでしょう。人を殺すことは普通に考えて悪いことです。しかし、(法的な裁きは別として)人を殺した人間が「謝罪をしなくてもよい理由」をあげようと思えばいくらでもあげられます。被害者が殺されるに値することをしたのだと言うこともできるし、自分を殺人行為にまで追い詰めた環境が悪いのだとも言えるし、自分を生んだ母親が悪いとも、その母親を生んだ祖母が悪いとも、人間を作った神様が悪いとも、主張したければ主張できます。

自分の行動が悪い結果をもたらしたとしても、それについて自分に責任は無いのだと論じるのは簡単なことです。出会い系バー通いや天下り先の斡旋問題で辞任した某元文部科学事務次官は、文科省の腐敗について「根本的な原因は行政を私物化する今の安倍一強政治にある」と主張していました。垣内の授業が下手なのも安倍政権とか在日とかロスチャイルド家とか天皇財閥のせいだということにすれば、生徒に謝罪する必要もなくなるのでしょう。

極論を言っているように見えるかもしれませんが、仕事のミスを上司に咎められたときに、咎められた側の部下が必ずしも責任を自覚するとは限らないということは誰にでもわかると思います。このことからもわかるように、好ましくない結果について責任を有する人間が謝罪するべきである、というわけではないのです。

逆です。

謝罪することによって「私にはこの結果について責任がある」という物語を構築するのです。責任とはフィクションです。ホロコーストの指導的役割を担ったナチスの高官が、自らの責任を頑に否定する一方で、迫害された側であるはずのユダヤ人哲学者が、自らの受けた迫害について自分は有責であると宣言する。

私たちの社会は、無数の人間たちの様々な行為と、その予測不可能な結果の相互関連によって形成されています。そして、人間の行為の結果は常に不可逆で、良い結果も悪い結果も取り消すことはできません。それにも関わらず、私たちの行為はしばしば「起こるべきでなかったこと」を生じさせます。「起こるべきでなかったこと」を取り消すことはできません。私たちにできるのは、それを許すことだけです。しかし、許すためには許されたり裁かれたりする人間がいなければなりません。人間は、人間以外の何かを許すことができない。そこで私たちは、「起こるべきでなかったこと」が生じたときに、その責任を有する誰かを探すのです。責任者がいなければ責めることも裁くことも許すこともできず、「起こるべきでなかったことが起こってしまった」という非常事態を収束させる術が無いからです。

このように考えてみると、「謝罪」という言語行為の意味が見えてきます。謝罪した人間に罪があるか否か、というのはあまり問題ではなく、その人が謝罪することで場が収まるか、という点が問題なのです。最初に挙げたアイドルの謝罪は、被害者自身に落ち度が無かったから問題なのではなく、この件について謝罪すべき人間が他にいるであろうと多くの人が考えたから問題になっているということになります。言い換えれば、被害者が謝罪すべきであると考える人間が多数であれば、運営会社は非難されなかったということです。