GTOにも金八にもヤンクミにもなれなかった人のブログ

主に国語(現代文・小論文)の授業について

社会に「閉ざされた」学校を目指して

次期学習指導要領のキーワードとされる文言のひとつに、「社会に開かれた教育課程」というものがあります。詳しい説明は文科省のHPなどを見ていただくとして(詳しい説明も何も、「学校が社会から閉ざされてるのはよくないよね」くらいの意味しか無いようにも見えますが)、学校が社会と連携すべきであることに異論のある人はあまりいないと思います。

学校の勉強は社会に出たら役に立たない。

こういう意味のことを主張する人間は無限に存在していますし、一面的には確かにその通りだとも思います。学校の授業が社会に出たときにどう役に立つか、という点についてはまた別な機会に書くとして、ここでは「学校が社会に開かれていること」そのものの是非について考えてみたいと思います。

「社会に出て役に立つこと」を学校で教えるのが、本当によいことだと言えるのか。

僕自身、教員になる前は、「社会に出て役に立つこと」を教えたいと思っていました。というより、それ以外に「よい教育」の形を考えることができませんでした。

考えてみれば、「よい教育とは何か」を机の上で考えるなら、何らかの形で実利的な効用の期待できる教育こそがよい教育であると結論するのが当たり前です。「社会に出て役に立たないこと」を教えることのメリットを敢えて主張しようとする動機を持った人間はそんなに多くないからです。

「社会に出て役に立つ」ことを教えるのがよい教育である、という結論は、教育について何らかの議論をしようとする人間が99%の確率で(少なくとも一度は)たどり着くであろう、最も安易な答えであることをまずは理解すべきです。逆に、「よい教育」の条件の一つとして「社会に出て役に立つこと」を思いつくことができないような人間は教育者としての資質を疑われるでしょう。それは誰もが思いついて当然の答え(のひとつ)なのです。誰が考えてもそうなるのが自然であるような答えを「自分の意見」だと思い込むのは危険です。

人間は生きる為に社会を必要とします。社会とは、人間の生存の為に必要なものを生産し、分配する機能を持ちます。特に重要なのは分配の機能で、人間は「同じ社会のメンバーである」という理由で、食べ物を他の個体に分け与えます。猿の社会では、与える側の個体に相応のメリットがあるときに、というより分け与えない場合に大きなデメリットが発生するときに(しぶしぶ)食べ物を分配することはありますが、「仲間だから」という理由で自分の食べ物を他の個体に分け与えようとする動機を持っているのは人間だけです。人間社会は、「自分たちは仲間である」という強い共感によって結びついた共同体であり、その共同体に守られることで、個人の生存が保証されているのです。

ただし、人間は最初から社会に順応しているわけではなく、社会の一員となる為に教育を必要とします。社会は「同じ社会の仲間」とみなした個人に対しては強い共感と同情を発揮し、個人の窮地を救ってくれることもありますが、個人の側が社会に対して「私はあなた達の仲間です」というアピールを怠ったときには、容赦なく個人を排除するものです。だから個人は教育を受けることで社会に順応し、社会のメンバーとして認めてもらう為のスキルを身につける必要があります。これを「個人の社会化」などとも呼びます。

したがって、社会に出て役に立つことを教えることが教育の目的のひとつであるという点については議論の余地がありません。ただそれは教育の目的の全てなのか、あるいは最も優先されるべき課題なのか。

社会に順応することは「よいこと」なのでしょうか。

社会に順応することは生きる為に必要なことです。しかしそれは、少なくとも道徳的・倫理的な善悪とは関係の無い話です。

学校教育の場において、「いじめ」はあってはならないこととされていますし、おそらく道徳的にも許されないこととされるでしょう。いじめ防止対策推進法という法律の第四条には「児童等は、いじめを行ってはならない」とあり、法的にも禁じられています。

しかし、社会において「いじめ」は悪であるとみなされているでしょうか。ちなみに、いじめ防止対策推進法の定義によると、「いじめ」とは「児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているもの」とされています。

簡単に言えば、本人が苦痛を感じていればそれは「いじめ」なのです。加害者側がどういう意図でその行為をしたかは問題になりません。悪意が無くとも、もしかしたら善意の行為が結果的に「いじめ」とみなされる可能性さえあります。そして、被害者がどういう人間であるかも考慮されません。客観的に見てその被害者にいじめられるだけの十分な理由があるとみなされる場合であっても、「いじめ」は許されないというのが学校教育におけるルールなのです。

よく考えてみると、これは社会の基準からするとかなり厳しいルールです。

例えば職場の中で誰から見ても能力が足りておらず、同僚や上司の足を引っ張っており、かつ自分の課題を改善しようとする意志も感じられない人間が、周りから辛く当たられることを悪いことだとか間違ったことであると感じる人はそれほど多くはないでしょう。

学校はそのように考えません。「いじめられるだけのことをした人間がいじめられるのは当然である」という理屈を受け入れてしまえば、いじめの加害者は被害者の落ち度をあげつらうようになるだけだからです。だから学校は、「どういう理由があろうといじめは許されない」というルールを設けています。

社会はそうではないのです。現に、「いじめられるだけのことをした人間がいじめられるのは当然である」という(学校教育の文脈では絶対に容認されないはずの)意見がかなりの程度に支持されてしまっているという事実があります。社会に順応することは、道徳的な正しさとは無関係ですし、いじめの問題に見られるように、法的な正しさとさえ関係がないことも多いのです。

道徳的な善悪は別としても、社会に順応することで本人が幸福でいられるのならそれはそれで良い、という見方もあり得ます。しかしそれも怪しいものです。現実問題として、社会に順応しているけれども幸福とは言えない人間はいくらでもいます。

というよりも、社会に順応すればするほど、自分個人の幸福が何であるかが見えにくくなる可能性もあります。社会というのは強い共感を基盤にした共同体であり、そこでは共通の価値が追求されることが自己目的化していきます。「みんなが欲しがっているものと同じものを欲しがること」はそれ自体が社会に対して「私はあなた達の仲間です」とアピールする行為です。「インスタ映え」の為に食事をするのは極めて健全な社会的行為と言えます。ですが、そういうことを繰り返していれば、自分自身に固有の欲望がどこにあるのかがわからなくなっていく、というよりも固有の欲望そのものが失われていく危険性も高まっていくのです。

そして、社会に順応するのは生存の為であると言いましたが、社会に順応していれば生存が保証されるかといえば、それさえも確実とは言えません。社会への順応性が高い個体ほど個人としてみたときには無個性であり、無個性であれば取り替えが効くわけですから真っ先に切り捨てられるリスクも高まっていくのです。

要するに、社会に順応することは、生存の為の必要条件ではあっても十分条件ではないのです。

人間は社会に順応しなければ殺されてしまいますが、順応しすぎた結果殺されることもあるのです。

アイヒマンは極めて平凡な社会人でした。彼はナチスの社会にあまりにも順応しており、自分の行動の善悪を判断することができなくなりました(集団的ないじめの加害者グループの一人が自分の行為の善悪を考えていないのと全く同じ現象です)。いや、彼自身、自分の目でユダヤ人が殺害されるところを見るのは辛かったと証言しています。それでも、彼は自分の「職務」を投げ出すことが出来ませんでした。その行為の是非を判断する自由を放棄してしまったからです。ホロコースト全体主義国家という目に見えない概念によって実行され、アイヒマンを含むナチスの役人や軍人は、ただ決定されたことに従う道具でした。

アイヒマンの行為が道徳的に間違っていたことは疑いなく、常識的に考えるなら彼が個人として幸福であった蓋然性は低く、結果的にはその生存も奪われてしまいました。

アイヒマンにならない為には、何が道徳的な行為であるかを自分の頭で考える必要があります。自分にとっての幸福が何であるかを自分の頭で考える必要があります。それは、社会に必要とされる知識や技術とは全く違う能力です。社会が必要としていることそのものを疑う能力です。その能力を身につける為には、「学校は社会に出てから役に立つことを教えるべきである」という誰もが思いつくであろう命題を疑うことが必要になります。社会の正しさと、法的な正しさと、道徳的な正しさは全て別であることを知る必要があります。

僕は、自分の意志と責任によってアイヒマンのように生きることは必ずしも否定しません。一人の公務員として、アイヒマン杉原千畝のどちらが正しいかということは一概に言えないからです。ただ、社会から理不尽な命令を突きつけられたときに、従うか逆らうかを自分は選ぶことが出来るのである、そして選んだ結果には自分が責任を引き受ける以外にないのであるということを自覚すべきであると思うのです。

「国語」とは何を教える教科なのか

読むというパフォーマンスは、たった一人の観客に向かってなされる。それは教師だ。

 

文章の解釈には正解がある。教師の解釈だ。

 

理解や解釈の「間違い」は許容されない。

 

アメリカの国語教師ナンシー・アトウェルが、伝統的な一斉授業を批判して述べた言葉です。先日出版された『イン・ザ・ミドル ナンシー・アトウェルの教室』の訳者による前書きで紹介されていたものの一部を引用しています。

アトウェルはアメリカの公立中学校で国語教師として働くなかで、一斉授業による指導に限界を感じ、「ライティング/リーディング・ワークショップ」と呼ばれる授業スタイルを確立し実践してきた人です。そういう人から上のような批判を受けると、学校や塾で「解釈の正解が存在し間違いが許容されない」国語の一斉授業を実践している人間としては些かたじろがざるを得ません。

塾はもちろん、僕が働く学校も一応は進学校とされる私立であり、そこでの授業は基本的には受験を意識したものが中心となりますし、いわゆる「受験国語」には周知の通り正解とされる解釈が存在し、それ以外の解釈は不正解とされます。

そのような国語の授業がもたらす弊害は、決して小さいものとは言えません。少なくとも「受験国語」の授業を通して、生徒が文章を読むことの楽しさを学ぶことは現実問題として極めて稀であり、むしろその逆の結果につながることの方が遥かに多いのです。元々文章を読むことの苦手な生徒が、「受験国語」の授業を受けて読書が大好きになったというケースは実際のところほとんど無いと言って差し支えありませんし(我々にとってはこの上なく幸福なケースではあり、そのような事例については強烈な印象とともに記憶されるのでそれが「ほとんど無い」ことなのだという認識を持つのは難しいのですが)、読書は好きだったし、国語の試験問題も何となくフィーリングで解けていたのになまじ「受験国語」のテクニックを学んでしまった為に却って点が取れなくなり、文章を読むこと自体にも抵抗を覚えるようになってしまうという悲劇さえ起こります。

このように考えると、進学校や塾で「受験国語」を教えるとはどういうことなのか考えずにはいられません。

とある大学の教育学部の小論文試験に、「逆上がりの出来ない児童に放課後居残り指導をして児童は最終的に逆上がりに成功した。そして満面の笑みで『先生、もう私は逆上がりしなくて良いんだよね?』と聞いてきた」というエピソードについての意見を述べる課題がありました。我々が「受験国語」の授業でやっているのは、一面ではまさにこういうことなのです。少なくとも、そのような事態が現実に起こり得るし、起こっている。アトウェルの批判も当然と言わなければなりません。

僕自身も、受験屋的なスキルばかりを追求している自分の現状を決して是とはしていませんし、いずれはアトウェルのような、生徒自身の興味関心を広げていくような実践がしてみたいと思っています。それが今、出来ていないのは、ひとつには今の僕が二つの職場で求められているのが受験屋としての役割であるという環境的な要因と、僕自身が受験勉強の文脈を離れた「国語」の授業というものをイメージできていないという能力の問題です(そもそも垣内は受験屋としてさえ半人前なのです。三分の一人前くらいかもしれない)。ただ、それはそれとしても、では今の僕にアトウェルのような、あるいは大村はまのような授業をやれる環境と能力があったとして、今の職場でそれをやるか。

おそらく、やらないと思います。少なくとも、授業のメインはアトウェルが批判する「一斉授業」形式の、正解の存在を前提とする授業になるであろうと思います。

僕自身にワークショップ的な授業が出来る、出来ないという点は別としても、少なくとも今僕が教えている生徒たちには「受験国語」が絶対に必要であると、僕は考えています。ワークショップ的な活動を取り入れること自体は良いとしても、国語の授業が「解釈の正解が存在し間違いが許容されない」ものであることを悪いとは考えていません。

確かに、唯一の正解とされる解釈を押し付けられることに、子供は抵抗を覚えるでしょう。読書好きな生徒であればなおのこと、自分の解釈が「不正解」とされることを納得できないかも知れません。国語の授業の目的を「生徒を読書家にすること」と定義するなら、「受験国語」には何のメリットもありません。実際、『イン・ザ・ミドル』を読む限り、どうもアトウェルは「生徒たちが一生涯文学と付き合う為の基盤を作ること」を目指して授業をしているように見受けられます。その目標が間違っているとも思わない。けれども、僕が国語の授業を通して教えようとしているのは文学の面白さではないのです。少なくともそれだけではない。

そもそも、「受験国語」における「正解」とは何でしょう。作者の気持ちでしょうか。筆者の主張でしょうか。

国語の試験問題とは、与えられたテクストを読んで、設問の指示に従ってテクストの内容を整理する処理能力を問うものです。

テクストを受験者に示すのは、その試験を作成した出題者です。テクストの内容をどのように処理すれば良いのかを指示するのも出題者です。そして出題者は、自分が所属する学校の教育方針に従って問題を作ります。

つまるところ、入試問題の中で示される「本文」なるものは、それを書いた人間の意図を離れて、出題者の意図に従って編集されたものであり、それを理解するというのは要するに、出題者(要するに学校)の立場に立ってそのテクストを解釈するということなのです。

ある小説の解釈は多様であり得ます。作者の意図とは別に、読者がそれをどう読むかはかなりの程度に自由です。ですが、入試は読書ではありません。問われているのは「あなたの解釈」ではなく、「出題者の解釈を理解すること」です。出題者の立場(受験する学校の教員)と、そのテクストが示された文脈(入試という状況)を踏まえて設問の指示を考えれば、「出題者の解釈」は自ずとひとつに絞られる。それが「受験国語」の「正解」なのです。

この「正解」にたどり着く力とは、「自分とは違う立場の他者の目線でテクストを解釈する力」です。それは論理的思考力であり、対話的なコミュニケーションの技術であり、個人的な文学鑑賞としての読書では決して身につけられないスキルです。

文学を鑑賞する力が人生を豊かにすることは間違いありません。それはそれとして、我々が子どもたちに伝えていかなければならないものです。けれども、「自分と違う他者の立場に立つ」という技術は、人間が社会の中で生きていく以上必ず要求されるものであり、しかも、それは日常生活の中で身につけるのが大変に困難なものでもあります。少なくとも家庭の中でそれを身につけるのはかなり難しい。家族というのは強い共感によって結ばれた共同体であり、「立場の違う他者」ではないからです。日常的な友達同士のコミュニケーションを通して身につくものでもない。友達なるものも、家族程ではないにせよ共感を基盤にした関係であり、「自分とは異質な他者である」という認識を持って接する相手では通常ないからです。家族や友人が自分と異質な他者であるという認識を常に持ち続けながら生活するのは、大抵の人間にとってはあまりにもストレスフルな状況と言えるでしょう。

つまり、異質な他者(例えば志望校の教員)の立場を想像し、彼の目線に立って物事を考えるという力は、日常を離れた特殊な学習環境が無ければ身につかないものなのです。僕は今の日本の学校教育の中で、そのスキルを身につける最も効果的な訓練が「受験国語」だと思っています。別に受験をしなくても良いのです。ただ、自分個人の「自由な読み」ではなく、テクストを提示した相手の意図を、今自分が置かれている状況と、相手の立場を踏まえて最も適切な解釈を考えること。それが、文学鑑賞としての国語とは違う、いわゆる「受験国語」を学ぶ意義であると、従って国語には「正解」があってしかるべきであり、間違いは許容されないのであると、伝説の国語教師に、僕は精一杯に反論するのです。

自分の言葉を手に入れるために

書かせたものの添削をしていると、生徒の顔がよく見えます。

自分の体験に根ざした主張と、どこかで聞いた事のあるような一般論とでは言葉の重みが違うのです(「言葉の重み」などという客観的に測定する事の出来ない基準で生徒を比較するのは形式主義者たる垣内の信条には反するのですが)。

一般的に、小論文とは作文と異なり、自分の経験を語るものではないとされていますし、原則的にはその通りです。とはいえ、小論文が「自分の意見」を求められているのである以上、採点者としても誰もが語りうるような一般論よりも、その人自身の言葉を聞きたい(読みたい)のではないかとも思うのです。別に自分の経験そのものを書く必要はないでしょうが、主張する意見が書き手の経験に根ざしたものでなければ、第一読んでいて面白くない。

先日、とある研修会の席で「クラス運営に最も大事なことはなにか」というお題に対して「思いやりの心をもつこと」と答えた先生がいらっしゃったのですが、こういう誰にでも(教育関係者でなくたって)言えるような台詞を聞いて研修の他の参加者にどういうメリットがあるのか僕にはわかりませんでしたし(その研修会自体どの程度の意義があったのかという問題もありますがそれはそれとして)、そもそもその先生自身そんなことを本気で思っていたのか疑わしい。「思いやりの心があればいじめもなくなるはずです!」というご意見は、彼女のどういう体験から出て来た答えなのかまるで想像もできないし、その意見からはそれを語る人の顔が全く見えてこないのです。

「思いやりの心があればいじめはなくなる」という主張の妥当性そのものにも大いに疑義がありますが、それ以前の問題として、そういう当たり障りのない一般論は聞いていて少しも面白くない。

小論文の問題集の解答例を読むのはとても苦痛です。正しいか間違っているかは別として、そこに書かれているのはどこかで聞いたような話ばかりだからです。

どこかで聞いたような話をそれらしい体裁の文章に仕上げる事が出来るというのは、間違いなく大学に入ってからも、更に言えばおそらくは社会に出てからも有用になる技術に違いありません。そして、変に癖のある主張をする受験生よりも、当たり障りのない無難な意見を提出する受験生を好意的に評価する大学が無いとは言い切れないし、就職活動における小論文試験であればそのような傾向はさらに強まる可能性もあるように思われます。

だとしても、僕個人としては自分の生徒にはそういうレベルに安住して欲しくないという思いもあるのです。

生徒には自分の言葉で何かを主張できる人間であって欲しいと思いますし、少なくとも大学はそういう人間の居場所であるべきだと思います(大学、というより学校と違って、「社会」なるものはどちらかと言えば自分の言葉を持たない人たちのための世界だと思っていますが、自分の頭でものを考えられない人間が増えすぎた社会にはあまり明るい未来は期待できない)。

それでは、自分の言葉とは何なのか。

言葉というものは、そもそも「自分のもの」ではありません。それは常に社会的に規定されたルールの中で運用されるものであって、そういう意味では人間は誰一人として「自分だけの言葉」を持ち得ない。

言葉を自分独自のオリジナルなものにするのは、言葉そのものの使い方ではなく、言葉を使う人間のオリジナリティーです。その人の体験がその人の言葉を特別なものにするのであって、言葉自体が最初から特別であるわけではない。

『それでも人生にYESと言う』というヴィクトール・フランクルの名著がありますが、この(いかにも昨今の自己啓発本作者が好みそうな)タイトルが単なる綺麗事でないのは、フランクル自身の強制収容所での激烈な体験があるからです。

スティーブ・ジョブズの言葉は多くの人の心を動かしますが、ジョブズの言葉を引用して人を感動させようとする人間の言葉に心を動かされる人はあまりいません(まあ、僕はジョブズがどんなことを言っているのか全然知らないのですが)。

言葉というものは、その人自身の体験と結びついたものでなければ、独自性を担保する事ができないのです。

自身の体験に深く結びついた主張は、必ず他の意見との対立や摩擦を生みます。「思いやりのあるクラスを作りたい」という誰にでも言える言葉は、誰にでも言える故に何も言ってないに等しく、何も言っていないに等しい言葉であれば対立も摩擦も起こりえない。ところが、語り手の体験に根ざした、その人自身のオリジナルな言葉には確固たる実体が備わっています。実体のある言葉だからこそ、必ず誰かと衝突するのです(これは現代文読解の文脈では「一般論は必ず筆者によって批判される」というルールとして説明されるものです。「一般論」とは誰にでも語る事のできる言葉であり、いやしくも評論文を書いて何かを主張する人間がそれを肯定するなどということはあり得ない)。

自分の言葉を語る事は、誰かを批判したり批判されたりする事と不可分に結びついています。というよりも、社会一般に通用している考え方を疑うところから自分の言葉を獲得する過程がスタートするのです(ちなみに、いわゆる「炎上芸」というのは一般論のベクトルを単純に逆にしただけの言葉であって、本人のオリジナルな言葉でないという点では一般論と何も変わらないと思っています)。

一般論を疑い、自分自身の体験から言葉を紡いでいく。自分自身の体験に根ざした独自の考えを言葉で十全に伝えるのはとても難しいことですが、それでも伝えようともがくなかで、自分の言葉の獲得は実現するのであろうと思います。

そういう面倒な作業が嫌だという生徒はいるでしょう。そもそもその為の能力に恵まれていないというケースにつても否定はできません。それはそれで仕方ないことだとも思いますし、そういう生徒も大学には合格させるというのが受験屋としての僕の仕事でもあります。ですが一方で、僕が目を見張るような新しさを感じさせる言葉を語ってくれる生徒が現れたりすると、自分が何の為にこの仕事をしているのか思い出すことができるのです。

綺麗事の毒

「子どもの個性を尊重しよう」「社会に貢献できる人材を育てよう」「子どもたちの可能性を信じよう」「一人ひとりの長所に目を向けよう」「思いやりの心を育もう」「互いを認め合おう」…教育関係者が好きそうな言葉たちです。他にもいくらでも書けそうですがきりがないのでこれくらいにしておきましょう。

今挙げたようなスローガンを綺麗事と言います。綺麗事とは、誰にとっても耳触りがよく、正面切って反対されることの無いようなフレーズのことです。学校の教育理念とか建学の精神というのは大体が綺麗事の域をでないものです。

このような綺麗事を「毒にも薬にもならない」と表現することがあります。聞こえが良いだけで何の具体性も無いスローガンは誰のことも傷つけないかわりに何の役にも立たない、という意味です。

果たして本当だろうか、綺麗事というものは本当にそのような無害なものなのだろうか、今日はそのことについて少し考えてみようと思います。

内田樹氏が『子どもは判ってくれない』の冒頭で次のようなことを言っています。

 

長く生きてきて分かったことはいくつかあるけれど、その中の一つは「正しいこと」を言ったからといって、みんなが聞いてくれるわけではない、ということである。イラク戦争のとき、朝日新聞の社説は「米英軍はバグダッドを流血の都にしてはならない。フセイン大統領は国民を盾にするような考えを持ってはならない」と書いた。この文章はまったく正しい。まったく正しいけれど、いったい、この文が誰に向かって語りかけているのか、私にはよく分からなかった。

(中略)

米英軍はバグダッドを流血の都にしてはならない。フセイン大統領は国民を盾にするような考えを持ってはならない。この主張に朝日新聞読者の九九パーセントがただちに同意するだろう。だが、読者のほとんどが「ただちに同意すること」を述べることに、どのような積極的な意味があるとこの論説委員は思っているのか、私にはそれがわからない。

 

内田氏はここで、「だれもが同意すること(すなわち綺麗事)を主張するのは無意味である」ということを主張しています。しかし、本当に無意味なのでしょうか。

確かに、「米英軍はバグダッドを流血の都にしてはならない。フセイン大統領は国民を盾にするような考えを持ってはならない」という主張に反対した朝日新聞の読者はほとんどいなかったことでしょう。この社説は大多数の読者の思考や行動に何の影響も及ぼさなかったのでしょう。しかし、まさに「誰も反論しなかった」「誰にも影響を与えなかった」というその事実こそが、この綺麗事の害毒であるとは言えないでしょうか。

「米英軍はバグダッドを流血の都にしてはならない。フセイン大統領は国民を盾にするような考えを持ってはならない」

ケチのつけようの無い正論です。そして、実に耳触りの良い言葉です。これを読んだ人間はどう感じるでしょうか。

何も感じない?

では、聞き方を変えます。これを読んだ人間は、何を考えるでしょうか?

おそらく、(大多数の読者は)やはり何も考えないであろう、としか言いようが無いでしょう。しかし、曲がりなりにも他人の意見をインプットして「何も考えない」のだとすれば、それはとても恐ろしいことなのではないでしょうか。

僕は普段新聞を読まない人ですが、新聞を読むとすればそれは世の中で何が起こっているかを理解するためです。そして、なぜ世の中の出来事について理解する必要があるかといえば、それは自分の考えを深めるためです。

ところが、内田氏が引用した社説はその目的を阻害します。「米英軍はバグダッドを流血の都にしてはならない。フセイン大統領は国民を盾にするような考えを持ってはならない」というまことに正しい意見をインストールした以上、それについてイラク戦争の当事者でさえない朝日新聞読者は何も考える必要がなくなります。

もちろん、当事者でない以上それより具体的なことを考える必要は無い、とも言えるでしょう。しかし、自分の判断で「この問題についてはこれ以上深く考える必要はない」と決定することと、社説の綺麗事で満足「させられ」、思考を停止「させられ」てしまうことは違っているように思われます。

「反差別」という題目を掲げながら論敵に対してこの上なく差別的な発言を繰り返す人間がいます。「反差別」それ自体は大変に正しく美しい言葉です。だからこそ、その旗を掲げている人間を批判した者には「差別主義者」「レイシスト」などのレッテルが貼られる。ツイッターでよく見る光景です。

彼らは反差別の旗を振りながらこの上なく醜悪な差別者になってしまっていますが、そのことに全く無自覚です。なぜそれほどまでに自分が何者になってしまっているか理解できないのか不思議なほどです。

そのような思考停止を発生させる要因の一つとして、「反論できない程に正しい大義名分が与えられている」という事実はとても大きいように思われるのです。

考えるというのは面倒なことです。苦しいことでもあります。だからこそ、絶対的に正しいと思われる言葉を手に入れて、考えることから解放されたいというのは無理からぬ心情だと僕は思います。

綺麗事は、そういう人間にとっての福音となります。誰もが反論し得ない言葉を掲げれば自分の正しさが保証されるからです。しかし、それは考えることの放棄という代償を伴うものです。まして、新聞社説のような媒体に示された綺麗事は、本来読者の思考を喚起すべき役割を担っているはず(だと思うのですが)なのに却ってそれを封じ込めるはたらきを持つという点で極めて悪質なものであると言うべきです。

「子どもの個性を尊重しよう」「社会に貢献できる人材を育てよう」

このような教育界にはびこる綺麗事もそれと同じように有害なものです。

個性とは何なのか、尊重とは何なのか、なぜ個性が尊重されなければならないのか、どのような個性でも尊重すべきなのか、尊重すべき個性とそうでない個性があるのか、その線引きはどこか、社会とは何なのか、人材とは何か、社会に貢献しなければならないのは何故なのか…たった2つの、よくある言説についても、考えるべきことはいくらでもあるのです。

しかし、「個性」や「社会貢献」などの耳触りの良い言葉を軽々しく乱発する人たちは、往々にしてそれらの言葉の意味についてさほど深く考えてはいません。考えられないのです。「個性とは何か」「それは良いものなのか」などとラディカルに思考することは、せっかく手に入れた正しく美しい命題の価値を相対化することだからです。

近年の教育界における最大の綺麗事は「アクティブ・ラーニング(主体的・対話的で深い学び)」でしょう。このスローガンの害悪(というよりは、このスローガンを掲げて教育を語る人たちの害悪)については機会があればじっくりと論じてみたいと思っていますが、端的に言えば誰がどう考えても正しいとしか言いようがなく決して反論され得ない文言を旗印にして、古い(とされる)教育が根拠も無く否定され、新しい(とされる)教育が無条件に肯定されるという事態が進行しています。そして、その結果を受けてアクティブ・ラーニングを批判すれば「古いやり方に固執する現場の教員たち」というレッテルが貼られ、文科省はますます強権的に現場に介入する口実を得ることになるのです。

綺麗事は決して「毒にも薬にもならない」ものではありません。綺麗事それ自体には何の実質的な意味が無いのだとしても(「アクティブ・ラーニング」という言葉それ自体には驚く程何の実質もありません。ずっと昔から教育が目指してきた理念に新しいラベルを貼っただけのものです)、綺麗事を口にする人間には必ず何かしらの意図や目的があります。私たちは綺麗事の中身ではなく、綺麗事を口にする人間が何を意図しているのかを考えるべきです。

綺麗事とは誰も反論できない程に正しく、美しい言葉です。それは裏を返せば、綺麗事があらゆる反論を封じるためのツールにもなり得るということに他ならないのです。

GTOになれなかった話

僕は学校に馴染めない子供でした。小4のときに不登校になり、フリースクール通信制高校を経て大学に進学しましたが、大学のコミュニティーにもあまり上手く順応できていたとは言えません。大学の同期で今でも交友のある人間は2人だけです。

典型的なコミュ障です。

人間が大勢で盛り上がっているときにはどうやって話題に入っていけば良いかわからず、少人数で一緒にいる時には場の空気とズレたことを言って煙たがられてしまう。

いわゆる「空気が読めない」という状況ではありますが、おそらく読めていないのは空気、という曖昧な概念ではなく、他人の表情や適切な距離感のような物理的な情報なのではないかとも思っています。自分が話しているときにはそれを聞いている人間がそこにいるのだ、という事実を実感できるようになったのが20代半ばくらいのことだったように思います。

そういう人間が学校に馴染めないのは極めて当然のことですが、僕は僕で自分が何か間違ったことをしているとは思っていなかったものですから(今でも当時の自分を「間違っていた」とは特に考えていない)、僕の学校なるものへの反発は大変なものでした。

今になって考えてみると、僕が順応できなかったのは「社会」であって「学校」ではなかったのでした。

大学を卒業して、不登校支援で有名なサポート校で働くことになりました。そこで僕はこれまで所属したどのコミュニティーよりも強い不適応を起こし、1年と経たないうちに心と身体を壊して、3年目の途中で退職することになります。

なぜ自分は最初の職場に適応できなかったのか。僕の社会性とかコミュニケーション能力の問題であった、とは思います。というよりも、そのコミュニティーに所属するための努力をする必要性をまるで理解していなかったというところに根本的な原因があったのだろうと、今では思います。

ですが、当時の僕にとって、これは不可解なことでした。

学校に馴染めなかった人間が、学校に馴染めなかった子どもたちを支援するためのコミュニティーに順応できないというのは奇妙な話ではないか。この僕が順応できないコミュニティーに、現在進行形で学校から疎外されている子どもたちが順応できる道理が無いではないか。僕にとって居心地の悪い不登校支援団体というのは存在自体が矛盾であるとしか思われない。現に、不登校経験のある高校生の口から、サポート校が大変に抑圧的な場に感じられているという声を何度も聞きました。変わるべきはそこに順応できない僕や生徒たちではなく、学校の方ではないのか。

公立の学校に、順応できないマイノリティーのために体質を変えろと要求するのは酷なことのように思います。公教育というのは全国民に対して最大公約数的な教育を提供するための制度であって、そこに馴染めない子供が出てくることはある程度避けられない。しかし、ここはその公教育から排除された子たちが逃げ込んでくる場所であったはず。それなのに、どうして、朝どうしても起きられずに毎日遅刻してくる生徒に「そんなことでは社会に出て通用しない」などという「指導」がなされているのか。

そのサポート校では「社会」という概念が大変に重視されていました。曰く、学校の先生は社会を知らない、学校の勉強は社会に出て役に立たない、我々は生徒を社会に貢献できる人材へと育成するのである、と。

新卒で教壇に立っていたとき、僕は職場の人間のこういった主張をかなりの程度に受け入れていました。学校の勉強が社会に出て役に立たない、という点については当時から全く納得はしていませんでしたが、教育によって社会に貢献できる人材を育成しなければならないという大筋の理念は正しいと考えていました。学校の先生が社会を知らないというのも自明の現実のように思われました。

学校の先生は社会を知らない。学校は社会とは違う。だから自分は学校に適応できなかった。そういう認識が根底にあったのでしょう。大学4年のときには一般企業で就職活動をして、一応内定ももらいました。少しでも「社会」に触れた上で教員になりたいと考えたからです。就職説明会でも「学校と社会の違い」についてたくさんの人間が様々な(しかし似たような)主張をしていました。

ある企業での面接で、大学時代壁にぶつかった経験を聞かれ、サークルで場の空気を読まずに自分の意見を言ったら無用のトラブルを起こしてしまったということを話したとき、面接官の方は「学生のサークルはそうなるかも知れないけど、社会人になったらむしろ自分の意見を積極的に言えることの方が大事だよ」ということを言ってくれました。社会というのはなんて素晴らしい場所なんだろうと感動したものです。そして、最初の職場であったサポート校が学校ではなく社会を志向するコミュニティーである以上、そこに僕の居場所が無いなどということは考えられないことでした。

しかし、現実には、そのサポート校にも僕の居場所はありませんでした。生徒との関係は良好と言って差し支えないものだったと思いますし、退職して何年もたった今でも連絡をくれる元生徒もいます。それにも関わらず、教室ではともかく、職員室には気がつけば敵しかいませんでした。誰もが僕の一挙手一投足を監視しているようでした。僕が失敗し、非難するタイミングが来るのを待ち構えているように思われました。

ここは社会ではなかったのか。この息苦しさは学校そのものではないか。いや、不登校になる直前でさえ、ここまで追いつめられていたかどうか。小学校で不登校になる直前は、確かに毎日が憂鬱で仕方ありませんでしたが、それでもメンタルの不調が身体の異常に現れることはなかったはずですし、まして路上で気を失って倒れるようなことは一度もありませんでした。

学校に馴染めない子たちのためのコミュニティーは、少なくともそこで働く僕にとって学校以上に息苦しい場所でした。生徒と教員では立場が違う、ということは言えるかもしれません。それにしても、学校と違う論理や価値観を有する「社会」であろうとしているコミュニティーで、学校が僕を排除したのと全く同じ理由で今まさに僕を追いつめようとしているというのはどうにも解せないことでした。

最初の職場であるサポート校を、3年目の途中で退職し、数ヶ月のニート生活を経て、現在の職場で非常勤講師として働くことになりました。そこで、僕は初めて居場所らしきものを得ることに成功します。

今の職場は、ごく平凡な私立の共学校です。何となれば、かつての僕が「学校的なるもの」として憎悪した全ての要素を満たしています。量だけは多いが学習効果の点では無意味としか思えない課題。成績の向上という結果よりも教師に従順であることが要求される閉鎖性。入試問題すら解かずに受験を語る不勉強な教師たち。そんな典型的なまでに学校的な職場が、(全く想像だに出来なかったことですが)僕にとってかつて無い程に居心地の良いコミュニティーであったのです。

僕の社会性が発達した、というのはあるでしょう。今僕がタイムスリップしてもう一度最初の職場に新卒として勤務したら、もう少しマシな働きが出来ていた可能性はあります。それにしても、今の職場の人間と、最初の職場の人間とを比べたときに、僕にとって接しやすいのは明らかに前者なのです。

非常に分かりやすいのは僕の不登校経験に対する評価の違いです。今の職場の先生は(それが適切なタイミングと適切な形式で伝えられたものでありさえすれば)僕が不登校経験者であることを好意的に評価してくれます。単なる社交辞令である可能性は否定しませんが、それでもその経験が何らかの形でプラスになるはずだという認識を示してくれます。

よくよく考えると不思議ことだと思うのですが、僕自身が不登校であった事実は、不登校支援のための施設であったはずの最初の職場では全く好意的な評価を受けませんでした。「不登校から大学に行ったからといって他の不登校児を見下しているのだろう」という意味のことを上長に言われたこともあります。たとえ社交辞令であるにせよ、不登校経験それ自体がプラスの価値になりうるということを明言してくれた教育関係者は、今の職場の(至って平凡な教師という以外の印象を決して持ち得ない!)先生たちが初めてなのです。

これはどういうことなのでしょうか。今の職場にも不登校生はいます。そういう生徒たちへの先生方の接し方を見ていても、最初の職場の先生たちに大きく劣っているとは思わない。それどころか、「プレッシャーをかけたからといって休養を必要としているメンタルがすぐに回復するわけではない」という単純な事実を、不登校支援の専門家であったはずの前の職場の教員以上によく理解しているように見受けられる先生も少なくない。

ここで、僕は初めて、自分を疎外していたのは「学校」ではなく「社会」だったのではないか、ということに気がついたのでした。

考えてみれば、「誰もが所属するべきとされるコミュニティーから排除された人間」を嫌うのは学校ではなく社会です。少なくとも、学校にはそのような生徒こそ教員のサポートが必要なのであるという常識があります。しかし、社会にそのような通念があるのでしょうか。誰もがそのコミュニティーに順応するのが当然とされるなかで不適応を起こした人間は自助努力によってそこに順応していかなければならない。そのような価値観が社会においてはむしろ常識であり、排除されたマイノリティーを支援すべきであるという意見こそが少数派であるように思われます。実際に、就職活動をしていたときには不登校だったことは隠すように就職課の職員に指導されました。就活指導としてはごく当然の判断でしょう。

僕が学校で感じていた息苦しさは、程度の差はあるにせよあらゆる社会に普遍的なものだったのではないのか。そういう視点で「学校」なるものの特殊性を考えたとき、(社会とかけ離れているとされている)学校的な価値観は僕を抑圧するどころか僕を救ってくれたところのものだったという可能性に思い至るのです。

僕がいま、こうして曲がりなりにも社会人として生存できているのは、言うまでもなく教員免許を持っているからです。授業者としてどうにかこうにか日々の仕事をこなしていられるのは、高校や大学で勉強したベースがあるからです。大学が僕に与えてくれたものはあまりにも大きく、更に言えば自分が大学に行くことが出来たのは、大学入試が勉強さえしていれば全ての人がクリアできる可能性のあるゲームだからです。

学校の先生というのは、確かに学校に順応できない(順応しようとしない)生徒にあまり好意的でないことが多いです。しかし一方で、「学校には馴染めなかったが勉強は頑張ったので大学に受かった」という物語が学校の教員の好むところであるというのも間違い無いのです。僕にはあまり縁のない話ですが、いわゆる不良を可愛がる先生というのは大勢いるようです。学校の先生というのは、一方では子供に対して社会そのものとして君臨しますが、一方で社会から排除されたマイノリティーへの特別な感情を強く抱いていることの多い人種でもあるのです。

僕は今、まさに学校の先生のそのようなマイノリティーへの独特の感情に支えられて職場に居場所を作っています。最初の職場では考えられなかったことです。そして、この職場で働くための知識や技術、資格は大学という教育機関が存在してくれていたお陰で得られたものです。

ここまで思考を進めた結果、僕が抵抗すべきものは社会であって学校ではなく、学校を批判するとすれば、学校が社会と切り離されていることではなく、むしろ学校が社会でありすぎることを批判しなければならない、という結論が導きだされました。学校は社会であってはならない。社会に出て必要とされる知識や技術は社会が教えれば良いのであって、学校は子供が社会に貢献するためのものではなく、むしろ社会と対峙するために必要なことを教える場であるべきだ。

このような認識に達したとき、僕は(不本意ではあるにせよ)自分が決して鬼塚英吉やヤンクミにはなれないのだということを理解しました。学校に敵対するには、僕は余りにも学校の恩恵に与りすぎている。不登校から大学に進んだ僕は、ある意味で日本の学校教育を最も有効に活用した人間だと言えます。不登校などにならず、どのようなコミュニティーにも柔軟に適応していく力のある人間は、学校教育という仕組みが無くてもそれこそ社会の中でそれなりにやっていけるのでしょう。しかし、僕には学校というモラトリアムがどうしても必要だったし、学歴が価値とされる社会でなければ僕の居場所はこの国のどこにも無かったに違いないのです。そういう人間がGTOでありえようはずがない。

大学を卒業したばかりの頃、自分は鬼塚になるのだと思っていました。不良ではないにせよ、方向性としては学校の権力に対抗して生徒を守って戦う教師になるのだと。しかしそれは自分にはできない。自分は鬼塚英吉に回し蹴りを食らう側の人間であって、学校への反発を自分の軸にすることはできない。そんなふうに心が整理された今、自分は鬼塚ではなく内山田教頭を目指していきたいななどと考えながら、自分に出来ることをやりつづけるのです。

責任を引き受けるのは誰のためか

「空気を読む」という表現があります。国語の教科書に載っている評論文などによれば、これは現代の日本に特有の不自然なコミュニケーション形式であるらしいのですが、実際のところどうなのでしょうか。

空気を読むというのは明らかに非言語的なコミュニケーションです。そして人間は、まず始めに非言語的なコミュニケーションを習得し、そのずっと後に言語的なコミュニケーションを身につけていきます。言葉を覚えていない赤ちゃんでも近くにいる人間の感情や行動の意図を察知することができますし、それはまさに空気を読むことそのものであるように思われます。それが現代日本特有の病理であるかのように説明する評論文筆者の主張にはいささか疑問が残ると言わざるを得ません。

明らかに私たちの日常的なコミュニケーションの大部分は空気を読むことに費やされています。そうであるからには、私たちの行動の選択も、その多くは場の空気に影響されたものにならざるを得ない。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とはよく言ったもので、私たちは多くの場面において、道路交通法よりは周りの人間がどう考え、どう行動しているかを基準に個々の行為の是非を判断しています。「空気」は私たちにとって、最も身近で強力な規範なのです。

空気という規範は私たちの行動を制約するという点では強い拘束力を持つものですが、それが非言語的コミュニケーションに由来する規範である以上、その具体的内容となると極めて曖昧なものでしかないというのも間違いありません。また、空気はすぐに変わります。昨日まで賞賛されていた行為が、突然悪魔の所行のように非難されるなどということも特段珍しいことでもない。いわゆる「空気の読めない人」を苦しめる原因となるところのものです。更に言うまでも無いことですが、空気という規範が示す正しさは、法的正しさとも道徳的正しさとも無関係です。

空気という規範の最も恐ろしいところは、それが自分の外部から否応無しに与えられるものであるということです。私たちは空気を読んでいるのではなく、読まされています。人間は法的正しさや道徳的正しさを学ぶずっと前から空気を読まされ続けているので、私たちにとってその場の空気に基づいて物事を判断していくことは、法や何らかの倫理に則って思考するよりも遥かに自然な事のように感じられます。だからこそ、そこに自分の主体性が働いていないことを、自分の行動の選択に合理的な根拠が存在していないことをしばしば忘れてしまうのです。

言語的な規範、例えば法や倫理は言葉として固定されている以上、空気のように状況によって変化してしまうような性質のものでもなく、それらの規範の妥当性についての客観的な検証が可能になります。そして何よりも、言語的な規範は人間が主体的に学び、選び取る事でしか習得できないものであるという点で、空気という規範よりも遥かに実用的なものです。

規範なるものは、自分の意志で採用したものでなければ意味がありません。自分が選んだ訳ではない規範に則った行動の選択には責任を持てないからです。

そもそも規範というものは、人間が自由な意思決定の主体として、自分の行動選択に責任を持つ為の枠組みであると僕は考えています。自分がどのような行為を肯定し、どのような行為を否定するのか、予め自分の中に基準が作られている人間だけが、自分の行動に責任を負う事ができる。逆に、ある行為が良い事か悪い事かを判断する能力の無い人間には、その責任を問わないことになっています(責任能力の無い人間は法的な責任を免除されるというのがその典型的な例です)。

空気という規範は、自由意志で選び取るものではありません。それは常に自分の外部からやってくるものです。自分の外部から注入された規範に則った行動の結果について責任をとることは、実はできない。

高校生を教えていて残念に思うのは、彼らが高校に入学してきたのは、明らかに自分の意志ではないと感じるときです。彼らの大多数は、「高校にはみんな行くものだから」という理由で高校に入学してきます。これは自分で選んだ規範に基づく判断ではありません。そして、自分の意志で高校に来たのだと思えない子どもたちは、そこで起こったあらゆる不愉快な出来事についての責任から免れようとします。授業についていけないのも、学校生活がつまらないのも、部活の練習が辛いのも、すべて自分以外の誰か(主に教員や親のような大人たち)のせいです。

とても辛いことだと思います。

義務教育ではないにも関わらず高校に入学するという選択をしたのは、生徒たち自身です。この事実は誰がどう言おうと揺るぎません。その厳然たる事実にも関わらず、彼らはその選択の結果について責任を「負えない」。自分自身の新たなる選択によって、その状況を打破するという可能性について考えることすらできないでいるのです。

今自分の置かれている状況は自分自身の責任ではないのに、どうして自分が努力してその状況を動かす必要があるのでしょうか。努力すべきはこの状況を作り出した責任者であるところの誰かであって、自分ではないはずである。彼らの世界観においては、そのように考えるのが当たり前なのです。しかし、現実には、彼らの行動選択について彼らに代わって責任を引き受けることの出来る人間などどこにもいない。

このような悲劇的な状況を避けるためには、「私は自分の意志でここにいるのであり、その結果起こったことの責任は私が引き受けるしかない」という自覚を持つ以外にはありません。そのためには、外部からやってくる規範ではなく、自分自身が選び、身につけた規範に基づいて高校に行くべきか否かを考えなければならない。何らかの規範を学んだり、あるいは自分で作り上げたりすることの意義はここにあるのだと思っています。

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僕には不思議でならないことなのですが、多くの人にとって「子供時代」というのは楽しい思い出に包まれた幸せな記憶として存在しているもののようです。少なくとも僕にとって子供であった時期というのは(個々に楽しかった出来事もあるにせよ)基本的に辛かった思い出として記憶されています。その理由を今考えると、どれほど辛い状況も自分自身にはどうすることもできないという絶望感が大きな理由であるような気がします。

今現在の僕にしても、そこまで精神的に安定した状態であるとは言い難いのですが、少なくとも高校時代くらいまでの自分と比べると格段に穏やかな気持ちで過ごすことができています。大人になって自分に出来ることが増えたために、子供の頃の「何をどうすればこの苦境が終わるのか全く分からない」という閉塞感に襲われることが格段に減ったのは間違いない。

「責任を引き受ける」というのは、とりもなおさず「選択の幅を拡げる」ということです。ある行為を自分に許すかどうか、何らかの明瞭な規範(それは法律でも良いし、宗教的な道徳でも良いし、自分で考えた行動原理でも良い)を持っている人間だけが主体的に判断し、その結果について責任を引き受けることが出来ます。

人に流されて選択してしまった行動であっても、結局はその結果に責任を持つことが出来るのは行動した本人だけであるという点に変わりはないのですが、行為の結果が好ましくないものであった場合、当人にのしかかる重圧は大変なものになります。責任を取る能力の無い人間に、取らされるはずのなかった責任が押し迫ってきたのですから適切な対処ができるはずがないのはむしろ当然のことです。

どういう結果であれ、自分の責任として引き受けられる範囲の困難であれば乗り越えたり逃げたりできる可能性はありますし、可能性があれば前向きな気持ちにもなり得ます。ですが、自分の責任ではないはずの困難に直面したときの精神的な消耗は筆舌に尽くし難いものがありますし、個人的な経験から言って、そのような苦難には特段の積極的な意味(困難を乗り越えて成長する、など)もほとんど無いと言って良い。それは端的に無意味で無価値な苦痛でしかないと思っています。

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「空気」を自分の行動の指針にすれば、自分の行動選択の結果について責任を引き受けてくれる人間がいなくなります。みんなが渡っていた赤信号を自分も渡った結果、車に轢かれたとしても、その怪我は自分のもので、同時に赤信号を渡っていた他の子どもたちを責め立てたところで事態は何一つ好転しません。

自分の行動の結果について責任を引き受けられること。これは「大人」として社会的に要求される資質である以前に、自分自身の不幸を避けるために是非とも必要な能力であって、自分自身の中に明瞭な規範を作ることは責任を引き受けるための最初の作業なのです。

ことばと自我

小論文対策の授業を任されてしまい途方に暮れています。生徒が書いたものを添削する、くらいのことはこれまでにもやったことがありますが、推薦入試やAO入試に向けてカリキュラムを考えて合格レベルまで持っていくところまで裁量するは初めてですし、諸般の事情により前任者がどのように授業を進めていたのかについての情報が一切無い(少なくとも僕のところには下りてきてない)状態でゼロから授業を組み立てなければならないのです。教科主任からは「お任せします」という大変心強いお言葉を賜りましたが、これを垣内への信頼の証であると受け取る程には僕の心はピュアではない。

とはいえ、小論文といえども所詮はペーパーテストでしかなく、ペーパーテストであるからにはある程度のテクニックを身につけさえすれば最低限の合格ラインを固めることは可能ですし、問題のパターンもそれほど多岐にわたっているわけではないので0を60まで、つまり、分かりやすく正しい文章表現で論理的な構成を持った解答を作れるというレベルまで持っていくのはそれほど難しいことではなさそうです。問題はその先、いかに自分独自の個性ある意見を示すことができるか。これはもう教員が教えるというよりは、生徒自身が考えるのを教員がサポートするという形にしかなりえないと思っています。

自分の意見を述べるとはどういうことなのか。

インターネットが普及して、誰もが自分の意見を全世界に発信できるようになりましたが、実際に意見を発信している人は決して多くはありません。他人の意見を受信しているのかといえばそうでもないようです(ツイッターを眺めていても大多数の人は「意見」など述べてはいません。そこに流れているものの大部分は「感想」であり、「共感」です)。意見を述べる人も他人の意見を理解しようとする人も少数派であることは、昔も今も変わらないように思われます。

そもそも、忘れられがちなことではありますが、大抵の場合において意見というのは無くてもさほど困らないものです。憲法9条自衛隊の位置づけを明記すべきであるか否か、何らかの意見を持っている人はそれほど多くはないでしょうが、それで支障の出るシチュエーションもそれほど頻繁に発生するわけではない。むしろ、直接の利害関係が無い問題について熱心に何事かを主張している人間の危うさを僕たちはよく知っているはずです。

にもかかわらず、必ずしも自分にとって身近とは言えない問題について意見を述べるとすれば、それは何のためなのでしょうか。

意見を述べることによって、その人が何者であるかを示すことができます。政治的に右であるとか左であるというのは、もっとも幼稚な形の意見表明ですが、ともあれ自分にはこれこれの立ち位置があるのだということを示すことができます。言ってみれば、意見を述べることは自分のアイデンティティーを作りだす方法のひとつなのです。

何の意見も発信しないのであれば、その人は言論空間に立ち位置を持つことができません。意見を述べることは言論空間のどこかに足場を作り、「私はここにいる」と宣言することです。その意見の正当性や論理的強度は差し当たって問題ではなく、「彼はあそこに立ち位置を作った」と人に認識されることで、その人は何者かであると認められるのです。

とはいえ、言論によって作り出されるアイデンティティーは実のところ極めて惰弱なものです。まずもって、私たちは自分の意見をゼロから作り出すことができない。誰かの意見を吸収した土台の上にいくばくかの味付けを施すことでしか自分の意見を述べることはできないのです。したがって、自分の意見として発信したものが誰の影響をどの程度に受けているのかを検証し続ける必要があります。自分の意見だと思い込んでいたものが、実は世間一般の通念でしかなかった場合、その人は残念ながら何者でもありません。あるいは、特定の人物の主張を自分の意見と思い込んで発信している人もいます。これも、他人から見れば、その人に個性と呼びうるものが無いことは一目瞭然なのです。

かといって、他人の意見を踏まえずに自分の意見を述べたところで、それは意見というよりは単なる思いつきの域をでないものになります。意見の表明が言論空間に居場所を作ることであるとすれば、その居場所は他者から認められることで、そして、他者の存在を認めることで作られるものです。「AはBである」という意見は、「AはBではない」という主張と互いにその存在を認め合ったときに初めて意味を持ちます。自分と違う意見の存在を踏まえずに吐き出される意見は、独立というよりは孤立した存在であり、言論空間の関係性のなかに居場所を得ることが出来ないのです。

また一方で、発信される意見は自分自身の体験に根ざしたものである必要があります。具体的な体験に基づかない意見は、空疎な抽象論に陥りやすく、聞き手の心に届かなかったり、逆に抽象性故に際限なく過激なものになったりする危険を孕んでいるからです。

小論文試験において最悪とされる主張は「人それぞれ」です。この解答が評価されてしまうなら全ての問題に対して「人それぞれ」「時と場合による」「よく考えていかなければならない」などと答えればよいということになってしまうからです。

「人それぞれ」という主張は無害です。誰のことも傷つけません。

僕は小中高の部活動を廃止すべきであるという意見を持っていますが、これを主張すれば、部活動に熱心な先生や生徒を傷つけることになるでしょう。あるいは、その逆の主張をした場合、僕のような考えの持ち主の反発を買うことになるでしょう。特定の立場を支持する意見を表明する行為には、必ず誰かの反感や怒りを買うリスクを伴います。

しかし、意見を述べるという行為を、アイデンティティーを確立する為の方法であると考えるなら、誰にも反発されない意見を述べることには何の意味もありません。「部活を廃止すべし」という意見に意味があるのは、「部活を廃止すべきではない」と考える人たちが存在しているからです。反対者が存在して初めて、「部活を廃止すべし」は「私の意見」となり、垣内の独自性の証明として機能するのです。

全く同じ理由で、いわゆる炎上を狙った意見表明にもあまり価値は無いと思っています。誰かの反感を煽るための発信は、誰にも反発されない意見を発信する行為のベクトルを変えただけで、自分が何者であるかを示すものにはなり得ません。

言葉によって自分の立ち位置を固めようとするとき、批判に晒されることは避けて通れませんし、むしろ批判にどのように応じるかでその居場所の安定性が変わってくるのだと思います。主張そのものの根拠を崩されれば足場は崩壊します。自分がかつて主張したことと矛盾する主張をすれば、やはりその言葉の信頼は崩れ、立ち位置を失います。議論すること自体から逃げても良い場面もありますが、絶対に逃げてはならない批判から逃げたときには当然のことながらその言葉の説得力は失われます。言論空間に居場所を持つことが出来るのは、信念を持って批判し、批判される覚悟を持った人間だけです。

そういう覚悟を全ての人が持つべきである、というのは流石に過酷過ぎる要求ですし、そもそも自分が何者かであることを示すやり方は意見を述べることだけではありません。意見を語る、というのはアイデンティティーを形成する為の方法のひとつ、それもどちらかと言えばマイナーな部類のものでしかないのです。言論によってアイデンティティーを確立するのに向いている人間というのは実のところそれほど多くはありませんし、自分に向かないやり方でアイデンティティーを維持しようとする努力はあまりにも不毛であるように思われます。

先ほども言った通り、意見というのは実際のところあってもなくても実生活にはほとんど支障のないものですし、意見を言う責任に耐えられない人が無責任な言説をまき散らしても本人も周りも不幸になるだけです。独自の意見を述べることは無条件に良いことであると喧伝する向きは強いですが、それこそ今の社会で一時的に流行している通念に過ぎないものである可能性も検討されるべきではないのか。実際のところ、人類史全体で考えると独創的な意見というものが重視された時代というのはそれほど長くはないのではないか。

「自分の意見の出し方が分からない」という高校生を前に、そんなことを考えるのでした。